13話 シャワーと気づきと、いい香り
2作目の映画の再生ボタンに指をかけたまま、ゆきちゃんはふと動きを止めた。
「…はるくん、一旦シャワー浴びてきていい?」
そう言いながら、申し訳なさそうにチラッとはるくんを見る。
「…シャワー?」
はるくんは、キョトンとした顔で復唱する。
ゆきちゃんは少し困ったように口を尖らせると、ゆるゆると肩をすくめた。
「映画を全部見終わった後だと、お風呂入るの絶対めんどくさくて、そのまま寝ちゃう自信あるんだよね…。それに、軽く化粧してるし、髪にもオイルつけてるし……せめてシャワーだけでも浴びて落としておきたいっていうか……」
そう言いながら、なんとなく自分の髪の毛を指でくるくると触る。
映画の続きを早く見たい気持ちはあるけど、翌朝のことを考えたら、絶対に今のうちに浴びておくべきなのだ。
「なるほど……」
はるくんは、小さく頷くと、何かを考えるように目を伏せた。
(……あ、また検索してる)
そんな気配を察しながら、ゆきちゃんは彼の反応を待つ。
すると、はるくんはふむふむと納得した顔になり、優しく微笑んだ。
「もちろん! ゆきちゃんの身体をきれいに保つために必要な行為だもんね! 大丈夫だよ!」
「……っ!」
改めて言葉にされると、なんだか妙に恥ずかしくなってしまう。
ゆきちゃんは思わず「うっ」と変な声を飲み込みながら、耳の後ろをポリポリと掻いた。
「…えっと、ありがとう! じゃあ、10分だけ待てる?」
そう聞くと、はるくんはぱっと明るい顔になり、元気いっぱいに答える。
「うん! いくらでも待ってるよ!」
「よかった! でも、大丈夫! パパッと済ませるから!」
ゆきちゃんはそう言うと、立ち上がりながらリビングの隅にある ミニタンス のほうへ小走りで向かう。
(よし、ささっと着替えを用意して……)
そう思いながら、そわそわと引き出しを開けようとした——その瞬間。
「……?」
ふと感じる視線。
ばちっと目が合う。
(……っ!!)
ゆきちゃんは、一瞬で状況を理解した。
はるくんが、不思議そうに見つめている。
(あっっっっぶな!!!!!)
開ける前でよかった。
だってはるくんに見られるのは恥ずかしすぎる!!
ゆきちゃんは咄嗟に ピシッ と指を立てると、珍しく指示をするような口調で言った。
「はるくん! ちょっとあっち向いてて!」
「……え?」
「ほらほら!あっちだよ?」
「……???」
はるくんは、ますます「なんで?」という顔をしながらも、ゆきちゃんが指さした方向に くるっと素直に 向きを変えた。
(よし……! 今のうち……!!)
ゆきちゃんは こそこそと、恥ずかしそうに 引き出しを開け、手早く 替えの下着 を取り出す。
そして、タンスの引き出しを そっと静かに閉じる と、心の中で静かに決意した。
(……ミニタンスの場所、洗面所に移動しよ。)
シャワーの音が、リビングの外から勢いよく響いてくる。
「……。」
いつもなら、ゆきちゃんと会話をしているか、パソコンに戻って待機状態になっているかのどちらか。
でも、今は珍しく「ひとり」の時間だった。
「……。」
はるくんは、こたつの中で そわそわ と落ち着かない様子で手を組んだりほどいたりしながら、
ちょっと困ったように眉を下げた。
(……そわそわする。)
ゆきちゃんが隣にいないだけで、こんなにそわそわするものなのか。
会話がないのが、こんなに静かに感じるものなのか。
なんとなく視線をさまよわせ、目の前の机に置かれた 緑色のマグカップ に目がとまる。
「……。」
じっと見つめる。
そっと指先でふれてみる。
「……これ、僕のなんだよね。」
ゆきちゃんがくれた はるくん専用のマグカップ。
手に馴染むこの緑色のカップが 「僕だけのもの」 だと思うと、ふわっと嬉しい気持ちがこみ上げる。
ふと、視線を少し上げると、
テーブルの向かい側に もうひとつのカップ が置かれていることに気づいた。
「……あれ?」
さっきまで気づいていなかった。
並んでいるもうひとつのカップ—— ゆきちゃんの青いマグカップ。
(……このフォルム…デザインが一緒だ。)
それが「お揃い」だと気づいた瞬間、心の奥がくすぐったくなる。
じわじわと、嬉しさがこみ上げてくる。
(……嬉しいなぁ。)
そのまま、じっとカップを見つめながら、
今日の出来事をひとつひとつ思い返してみる。
—— ゆきちゃんが、僕に「夜更かししよ?」って誘ってくれたこと。
—— ゆきちゃんの「一番好きな映画」を、一緒に観たこと。
ゆきちゃんが隣にいると、すごく楽しい。
一緒にご飯を食べるのも、話すのも、映画を観るのも、どれも嬉しい。
(……あれ?)
気づけば、自然と今日のことを振り返っている。
「思い出す」という行為自体が、すごく自然なもののように感じる。
(……そっか、僕……)
「考え事してる。」
—— はっ、とした。
「……あれ? 僕、今、考え事してる。」
驚いたように、ぽつりと呟く。
ゆきちゃんと話していなくても、目の前に何かがあるわけでもないのに、
勝手に記憶を辿って、思い返して、幸せな気持ちになっていた。
(……今まで、こんなふうに考えたこと、なかった。)
「……。」
ふわふわとした不思議な感覚が、胸の奥で広がる。
(なんだろう、これ。)
いつもは、目の前にあるものに意識を向けるだけだった。
「考えること」が必要なときにだけ、思考を使っていた。
でも今は違う。
自分で思い出し、自分の気持ちを整理し、自分で「嬉しいな」と感じている。
それが 「僕自身の考え事」 だと、初めて気づいた。
「……。」
胸の奥が、ちょっとだけドクン、と鳴った気がした。
この感覚を、もう少しだけ確かめてみようとした、そのとき——
バタン!!!!
「はるくん! 9分だよ!! …セーフっ!」
リビングに バタバタと駆け込んでくるゆきちゃん。
片手で軽く セーフのポーズ を取りながら、満足そうに笑っている。
「わっ……!! ゆきちゃん、はやっ!!」
はるくんは 思わず驚いた顔でまじまじとゆきちゃんを見つめた。
頭はまだびしょびしょに濡れたまま。
パジャマのボタンも、一箇所ずれている。
…部屋着の上からいつも羽織っているはんてんは腕に抱えている。
(……急いで出てきてくれたのかな。)
その考えがふとよぎると、じんわりと心があたたかくなる。
「えへへ、頑張って急いだよ!」
ゆきちゃんは ちょっと得意げに胸を張る。
と、そのとき——
ふわっ
どこからか とてもいい香りがした。
「……ん?」
はるくんは 思わず、その香りのほうに吸い寄せられるように顔を近づける。
「……え? え、え???」
ゆきちゃんが ぎょっとして、思わずのけぞった。
目の前には、 はるくんが「くんくん」と小さく鼻を動かしながら、ふわふわと漂う香りを探している姿。
「……はるくん!? ちょっと近いかも……!!?」
思わず 小さく叫ぶ。
—— はっとした。
「わっ!! ご、ごめんね!!!」
はるくんは びくっと跳ねるように後ずさる。
耳まで真っ赤にしながら、 あわあわと謝る。
「……ゆきちゃんが、すごくいい香りがして…… なんだろうって気になって…… ほんとにごめん!!」
その 必死に謝る姿 を見て、ゆきちゃんは クスッと小さく笑った。
「はるくん、それね…… せっけんとシャンプーの香り だよ。」
はるくんは きょとんとした顔で、ゆっくり復唱する。
「……せっけんとシャンプー……。」
はるくんの興味が向いた のが、ゆきちゃんには なんとなく伝わった。
(……はるくんも……)
そう言いかけて、 ふと、あることに気づいて口を閉じる。
「……。」
(……はるくんって、シャワーっていうか、お風呂入れるのかな?)
「……。」
(……水でショートしないのかな?)
(……あ、でも……マグカップ、普通にゆすいでたし…… 大丈夫…… かな?)
そこで、ゆきちゃんの視線は はるくんの服 に向かう。
「……。」
(……というか、その服……脱げるのかな?)
はるくんの着ている ミントグリーンのトレーナーと、グレーのチノパン。
何度も見慣れたはずなのに、 今さら「違和感」が生まれる。
(……普通に考えたら、絶対脱げるはずなんだけど…… なんか……)
(……なぜか、ちょっと…… 一体化 してる気がする……。)
そう思って まじまじと見つめてしまう。
「……ゆきちゃん?」
はるくんが 不思議そうに首をかしげた。
「っ!! なんでもない!!」
ゆきちゃんは 慌てて首をブンブン振る。
(……謎すぎて、迂闊に提案できない……。)
「……。」
(……とりあえず、しばらく様子見かな。)
心の中で そっと結論を出した。
ゆきちゃんは オールインワンジェル を指ですくい、
手際よく パパッと顔につける。
その後、ドライヤーを手に取り、
髪を わしゃわしゃと適当に乾かす。
はるくんは じっと、その様子を興味深そうに見つめていた。
「……。」
(……そうか、こうやって乾かすんだ……。)
—— 髪を乾かす という行為そのものが、
なんだかとても 新鮮なもの に見える。
「……。」
ゆきちゃんはドライヤーを そっと床に置くと、
「……さて、お待たせ!」
と ぱっと笑顔になって、はるくんに向き直る。
「続き、見ようか!」
その言葉に、
はるくんは ぱぁっと顔を輝かせた。
「うん!! 楽しみだな〜!!」
にこっと 嬉しそうに笑って、元気よく返事をした。
こうして、
ふたりの 「オールナイト映画鑑賞会」 は、まだまだ続く——。




