ナナ
初投稿です。ちまちまと更新する予定です。
頭のてっぺんで結われた、ボサボサの深緑色の髪。弱々しく光る光輪。小さな翼。ナナは今年で78歳、まだ若い(?)見習いの天使である。今日も今日とて、仕事と言ったら掃除だの、洗濯だのの雑務ばかりであり、下界へ人間の監視へ向かう年長の守護天使たちを指をくわえて見ているしかないのである。
「はぁ…カッコいいなぁ…」
びしょびしょのモップを持ったまま突っ立っていると、突然ゴン!という音と共に鈍い痛みが走った。
「いでっ」
頭を押さえながら苦い顔をして振り返ると、そこにはもちろん、真顔のジード師匠が仁王立ちしていた。
「さっさと終わらせて53階に移動しろ。ここにいるのはもうお前だけだぞ」
師匠は真っ黒な髪をかき上げ、メガネをくいっと押した。
「は、はーい…」
ナナはそそくさと辺りを拭き、バケツを持って階段に向かって走って行った。さすがに師匠には敵わない。何年生きていればあんなに翼が大きくなるのだろうか。年齢なんか聞いたこともない。きっと私の10倍はあるだろう。師匠のことはかなり尊敬している。背高いし、顔かっこいいし。確かに怖いけど、圧倒的に顔がいい。別の班で同い年のペルラなんて、ジード師匠が好きすぎてわざわざ毎日寮を抜け出して眺めに来てるらしい。あのスペックなら、年下に恋されても仕方ないな…。まぁ、私は寮を抜け出したりなんてしなくても、毎日直々に叱られるけど。そんなことを考えながら、ナナは階段を小走りで駆け上がった。
長い長い螺旋階段を登り終えると、ナナは完全に息が切れていて、フラフラと壁に寄りかかった。すると深呼吸する間もなく、各々作業をしていた他の見習い天使たちが続々と雑巾やら箒やらを投げ捨てて駆け寄ってきた。うげっ、またサボってたとか言われちゃう…
唇を軽く噛んで構えていると、予想外に反して、いつもの怒鳴り声は聞こえなかった。
「ナナ、お前すげえな!師匠の弱みでも握ってんのか?」
「信じられない!!一体何をしたの!?」
「お前とうとう書類に不正でもしたのか…?」
は?
何言ってんのこいつら…?
唐突に自分に向けられたキラキラした目や疑いの目で明らかに困惑するナナを見て、全員の表情が驚きと、やはり疑いに変わった。
「おいおい、まさか本人サマが知らないっての?」
「そんなわけないじゃない!とぼけてるだけよ、こんなに噂になってるのに!」
「ま、待ってよ、何がどうしちゃったの?」
張本人のくせに全くついていけないナナを尻目に、天使たちはその話題についてさらなる議論に入ってしまった。
ていうか、何になっちゃったのか分からないけど、誰も私の純粋な努力で任命されたと思ってないじゃん…
ショックと困惑と空腹で特に動けずいると、大きな手が肩をポンと叩いた。
「おー、人気者じゃないか。」
師匠がかすかに口角を上げて言った。最高のタイミングでの登場に、ナナは質問をしたい欲求があまりに強く、師匠の顔を見つめ無音で口をぱくぱくとさせた。
「まぁ、聞きたいことは分かる。来い、説明してやる。」
師匠は廊下の奥へと歩き出した。ナナは、師匠の大きな歩幅と歩きとは思えないスピードについていくために普通に走った。
「適当に座ってくれ」
ジード師匠は、ナナと二人のルームメイトの部屋の3倍はありそうな大きさの、豪華なシャンデリア付きの部屋の真ん中にあるソファを指差して言った。ここは…師匠の部屋か?
「そうだ、俺の部屋だ」
ナナは随分とカジュアルに考えを読まれビクッとした。やはり師匠はすごい。ソファの右端にそっと腰掛けると、師匠はデスクの前に立った。
「単刀直入に言おう」
ナナはごくりと唾を飲んだ。
「おめでとう、ナナ。お前は明日から守護天使だ。」
「………ぇええええ!!??!?」
その日の午後、ナナは師匠に守護天使の具体的な仕事についての授業を受けていた。窓から覗く羨ましそうな顔たちに、時々ドヤ顔で返しながら。
「…で、お前はこれを……おい、聞いてるのか?」
はっ、危ない、瞼が重くなりかけていた、という顔をしてしまった。師匠は一瞬苦笑いし、少し不安そうな顔のまま説明に戻った。どうやら私の仕事は、ナギム村という小さな村に住む6歳の女の子を護ることらしい。私たち天使は、自然に干渉する力を持つ。私の力はせいぜい風を吹かせるくらいだが、師匠なら台風くらい簡単に起こせるだろう。とにかく、この力で人間を助けるのが守護天使だ。
「えー、昔習ったとは思うが、一応復習しておこう。守護対象が死亡した場合、担当の天使はどうなる?」
「えっと、記憶を消されて人間になります」
「そうだ。まぁいくら記憶が無いとは言っても本能は天使のままだから、脳が状況を理解できる前に頭がヘンになって自殺するやつがほとんどだけどな、ははっ。」
…なんで笑ってるんだろう…怖すぎる…
そうだ、そういえば、なんで私がいきなり守護天使になれたのかを聞かないと。すっかり舞い上がって肝心なことを聞き忘れていた。
「師匠、さっきからずっと聞きたかったんですけど…」
「ん?なんだ?」
「どうして…私が任命されたんですか?」
師匠は軽く背伸びをした後、ため息をついた。
「そりゃあ、気になるよな。当たり前だ。でもな、これは不思議なことに長老様のご命令なんだよ。理由なんて二の次だ。とにかくお前がやるべきなのは、明日から使命を全うすることだけだ。」
師匠はナナに近づき、ただでさえぐちゃぐちゃなナナの髪を更に崩した。
「俺だって不思議だ。鈍臭くて、トロくて、頭がいいわけでも体力があるわけでもないナナが、守護天使なんてな。全く訳がわからん。」
…ちょっと言い過ぎじゃ無いだろうか。
唐突にディスられて凹んだナナを見て、師匠は少し申し訳なさそうな顔でまたナナの髪をぐしゃぐしゃにした。
「まあ、人間の子供だって、弱いが何も毎日死にそうになるわけじゃないんだ。よっぽどのことがなければ上手くいくさ。」
師匠は突然背筋を伸ばし、手を叩いた。
「よし、もう大体教えたな。早く班と合流してこい、急げば晩飯に間に合うぞ。」
えっ、もうそんな時間?とにかく、ごはんを逃すわけにはいかない。
「はい、ありがとうございました」
「明日はいつもより早いから、夜更かしすんなよ。」
「その…時間と場所って…?」
「あぁ、そうだな…まぁ初日だしな、起こしに行ってやってもいい。」
…?……起こしに行ってやってもいい…??
こ、これは、、本当に師匠なのか…?
とりあえず、早めに起こしてほしいとルームメイトに土下座をする手間が省けた。
「あ、あありがとうございます、失礼します」
「おう、なるべく食っとけよ。」
重厚感のあるドアをそっと開け、そっと通り、そっと閉じ終わった瞬間、食堂に向かって爆速で駆け出した。守護天使になれるという事実の味が濃すぎてしばらく空腹を忘れていたが、授業を受けているとだんだんと腹が内容物の無さに文句を表明し出してきた。もうペッッコペコだ。
明日、やっと、何年も何年も憧れてきた下界へのポータルに飛び込めるんだ…人間を直接見られるんだ…
そう思うと、感動で一瞬立ち止まりそうになったが、腹の怒号ですぐさまハッとした。ナナは、怪物にでも追われているような勢いで走った。