008 森を抜けたその先で
「会いに行きましょう、西の魔女に」
そんなウィズの提案により明確な目的ができてからの僕たちの行動は迅速だった。
「出発するなら少しでも早い方がいいか」
「えー、面倒臭いわねー…」
叩き起こされたことでやや不機嫌なディディが駄々をこねる。ただ、妖精族である彼女の荷物など高が知れているだろう。僕としては別に休んでいてくれて構わないと思っていた。チラリとウィズに視線を投げれば、優しい表情で首を振っている。
「ディディは休んでていいよ。どうしても持って行きたいものだけは教えてね」
後から文句は受け付けないぞと釘を刺したものの「食べ物ぉ…」と言いながら再び寝る体勢を取るディディ。この小さな身体であれだけ肉を平げて、それでも食べ物を求めるのだからおかしな話だ。思わずウィズと2人でくすくす笑ってしまう。ただそれが重要であることはいうまでもない。今後潤沢に食べ物を調達できる保証もないのだから。そんな食料を含め、物資には当然限りがある。決心は出来るだけ早いに越したことはないだろう。特に否定的な意見が出ることもなく、焚き火の柔らかな灯りを頼りにすぐさま準備に取り掛かることになった。
「じゃあ、それぞれの荷物を革袋に詰めるとして…、いくつか使えそうな武器ももらっちゃおうか」
「荷車はそのまま使わないのか?」
せっかく馬車ーー荷車を引いているものはあくまで馬のような獣であって馬ではないのだがーーにまとまっているのだから無理に革袋に小分けにする必要などないのではという純粋な疑問であった。
「カツキ君は許可証をもっているの!?」
馬車の疑問を投げかけた途端、勢いよく振り向いて目を輝かせるウィズ。
「えっ、許可証ってなんの…?」
一瞬の間が空いた後、ウィズの気配が説明をする際のソレに切り替わるのを感じた。あたかも見えない眼鏡が見える気がして少し面白い。
「行商許可証、通行許可証、色々あるけれど…。何かしら必要性が証明ができないと、最悪街の衛兵に攻撃されても文句は言えないわね」
免許みたいなものだろうか。信号などあるはずもないだろうし、確かに誰も彼もがこんなものを乗り回してしまえば危険だと考えるのも無理はない。
「それに荷車で移動する場合は、確かそうした証明書を見せて然るべき場所で護衛をつけるのが義務付けられていた気がするわ」
聞き齧りの知識を思い出すような様子で中空を見上げるウィズ。彼女だって検索すれば答えを出してくれる某先生などではなく、あくまで一人の人間なのだから当然だ。外国語を話す友人に「これって○○語で何ていうの?」と聞いたら必ず答えが返ってくると思い込んでしまうあの現象を気づかないうちにに持ってしまっていたことを少し反省する。彼女だって間違えはするし、勘違いして憶えていることもあるだろう。あくまで参考程度の話なのだと、前のめりになっていた聴き方を落ち着かせた。
「義務?」
「えぇ、ほら、荷車の特性上良くないものを運んだり出来ちゃうわけじゃない?だから一度、国とか街が認めた機関を通すようにすることで、間接的に密輸とか違法な人身売買を防ぐことができるようにした、って歴史を聞いたことがあって」
もちろん全て防げる訳ではないけどね、と彼女は続ける。
「それに、道中でも腕利きが監視している訳じゃない?企みしづらい状況を作るっていう意味合いも持たせられるでしょう?」
そう言われてみると合理的なような、そうでも無いような気がしてくる。なんにせよ馬車を勝手に乗り回すのは良くないということは貴重な情報だ。知らずに乗り回していたらどんな目に遭っていたか分かったものではない。
「でも悪いことばかりじゃないみたいでね。義務にする代わりに、費用は個人で雇うよりだいぶ安い相場感だって本に書いてあったわ」
持っていくものと置いていくものを選別しながら、片手間にそうウィズは続ける。
「健全な利用者なら安く良い護衛が雇えるわけだし、護衛は護衛であることの証明書が必要だから検問で二重証明が可能になるのよねー」
そんな話をしていると「あっ」とウィズが何かに気づいた様子を見せた。彼女は小走りでこちらに駆け寄ってくると、八芒星が稲妻に撃たれたようなラインで2つに分かれたメダルのようなものを持ってきた。
「これは?」
「許可証の…おそらく偽物かなぁ」
元々この馬車は盗賊の所有物だ。しかし真っ当なものでない可能性は高いのだろう。本物を見たことがないため、これが偽物なのか、偽物だとしてどの程度精巧に作られたものかはわからない。ただ、許可証というからてっきり書類の類ーー筒状に丸められ、紐や封蝋で閉じられたものを想像していた。しかしここにあるのはある種アクセサリーに近いものだ。
「これが証明になるのか…?」
僕にはそれがどうにも安っぽいものに映ってしまう。言ってしまえば偽造が簡単にできてしまう気がするのだ。
「まずこの割れた八芒星の片方ーー青い方が荷車を扱う人の証。もう片方の赤いのは護衛の証。その二つがこうしてピッタリ合う組み合わせはこの世でひとつになるように、都度組み込まれた魔術が働くの」
通常は稲妻のように乱雑な継ぎ目ではなく、素直に一本線の断面になっているらしい。それを護衛として雇う際に付き合わせると、勝手に複雑な継ぎ目を形成するため一対の鍵になるのだそうだ。
「便利だなほんと…」
魔法はこんなところにまでしっかりと生活に食い込んで来るのかと感心さえしてしまう。それが一意であることを、何の情報を基準に決めているのか。とにかく組み込まれた魔術の原理とやらは全く想像がつかないが、そっちのことは素人同然なのだ。大人しく飲み込んでおくことにした。
「まぁ、魔“術“だからね。道具を介して擬似的な契約魔法を行使しているんじゃないかな」
「…へぇ、契約魔法なんてのもあるんだ。」
察するに、限られた旅の間だけの契約であるから正式な契約魔法には含まれないといったニュアンスだろう。主従の契約を結ぶ魔法…。それこそ馬のように移動手段として飼うことのできる動物がいるのなら便利かもしれない。
「そういえば荷車の契約ってことはこの…荷車を引いている動物だけ連れていくのはどうかな?」
名案ではないかと思ったが、ウィズは首を横に振る。
「正直、より多くの荷物を運ぶという意味でならいい考えだと思うわ。でもこのグランドールという種はね、懐いていない子を連れ回すのはちょっと危険なのよ」
馬ーーもといグランドールは小さい頃から人に慣らすことでようやく馬車を引かせることができるらしい。しかしこの子は盗賊に育てられただけで、人というよりは個人に懐いているに過ぎずおそらく躾もろくにされていないだろうとのことだ。
「それにね、この子自身がかなり食欲旺盛なのよ。この森みたいに潤沢な草木が生えていれば勝手に食べてくれるけれど、これから向かう西の魔女が住む地域は、おそらく厳しい環境なはずだから…」
「わかった。じゃあ、この子は手綱を切って自由にしてやろう」
「そうね。そうしてあげたい」
そうこう話をしている間に、荷造りはあらかた完了した。基本的な食料と、吸血樹の枝。小さめの鍋をはじめとする最低限のキャンプ用品を詰め込み口を堅く縛った。重さとしては数キロあるが、これも含めて慣れていかなければ旅などままならないだろう。また、取り回しのしやすい片手剣を一本拝借することにした。刃渡り50センチほどの両刃の刀身は子供の身体でも取り回しのしやすいサイズ感をしており、重さも手頃だった。もう一つ、意匠もシンプルで少し細身の刃幅がデザイン的にも好みだったのだ。金に光り輝く宝飾や、宝石の主張が激しいデザインなど、仰々しいのは好みではない。
「あとはナイフを1本でいいかな」
ものを切ったり、いざというときの護身手段であったりと、あるに越したことはないだろう。ここ数日、ナイフというものの便利さを痛感しており、いつか愛用の一本が欲しいなと思うほど重用していた。武器としてみた場合、頼りないことは否めない。この世界に来る前は僕も一般的な男子の一人であり、やはり大きな剣や両手に剣を持つ双剣などというものに憧れていた時期がある。しかし、実際に何度かの“死合い”を経て生まれた絶対的な指針が一つだけあった。武器は“使いやすさ”が全てだ、と。重さは破壊力を生むが咄嗟に抜くことはできない。障害物の多い環境では大きなものは振り回せないし、武器を2本持つくらいなら盾でも持って敵が疲れるのを待った方がよほど建設的だ。圧勝しようが、かっこ悪く地べたに這いつくばって泥臭く勝とうが結果は「生」か「死」なのだ。ならばより確実な方法を取るべきなのだと最近は思うようになっていた。
「僕の方は準備終わったよ」
「うん、私ももう終わりかな」
そういう彼女も僕よりひとまわり小さい革袋を持ち、水筒を腰元にくくりつけられるように工夫されていた。
「やべ、僕も水は持ち歩かなきゃだめだ」
「ふふ、抜けがないか最後に確認しよっか?」
お互いに用意した荷物を話しながらウィズは姿を隠せるローブがわりの布を荷物に追加し、本当の意味で準備が完了する。確認も終わったとのことで、明日以降の旅に備えて僕たちも寝ることに決めた。とは言っても見張りのローテーションから僕はまだ寝ずに過ごす必要があるのだがーー。
「おやすみ」
「えぇ、おやすみなさい」
ここ数日でわかったことが、ウィズは存外寝付きが良い。こんな劣悪な睡眠環境でも、すんなりと寝ることができるし、ある程度するとちゃんと起きる。僕とは大違いだ。正直羨ましい。そんな彼女の寝顔を一通り堪能した後、しっかりと寝付いたことを確認してから先程の片手剣を手に取って立ち上がった。
「型とかは知らないけど、抜刀と振り下ろし位はまともにできるようになりたいからね、っと」
要するに素振りである。日中は狩に勤しみ、夜の暇つぶしにこうして自主鍛錬を行なっていた。数日前にウィズと話した通り、このメンバーには戦力が圧倒的に不足している。その中でも最も深刻なのが前衛の不在だ。もちろん最適な人を見つけることができるのならばそれに越したことはない。しかし誰かを雇うにはお金が無く、誰かを招き入れるにはウィズの秘密を漏らさないと確証が持てる人物である必要がある。ーーそもそも人との出会いがないのだけれど。そんなこともあり、僕はこうして、一刻も早く武器を扱えるようにならなければならないと考えているのである。
「51、52…」
ヒュン、ヒュンと情けない音を聞きながら、雑にならないように意識して剣を振る。足の配置、肘が痛くならないような腕の構え。わからないなりに、考えた。より効率的に、効果的な鍛錬となるように。同じことをひたすらに繰り返す。考えて、考えて、考えた。剣で大成するつもりはないけれど、それでも今手元に抱えてしまったこの二人を守るだけの力が欲しいと、ただそれだけを願って。
「83、84…ーーッ!!」
ビリッと手のひらに痛みが走った。またマメが潰れたらしい。振るたびに少しだけ滑って回転する剣の柄が、破れたマメの内側を擦ってゆく。目尻に若干の涙が浮かんだが、無視して続ける。これでやり方は合っているのだろうか。こんな作業に意味はあるのだろうか。日々目にする化け物を脳裏に浮かべ、手にした武器の心許なさに不安が増す。選んだ武器は本当にこんなもので良いのだろうか。せっかく鍛錬するのだから、もっと大きな武器を、一撃に特化したような技術を身につけた方が良いのではないか。考えは尽きない。脳みその片方で、正解のない思考がぐるぐると頭を回転する。それでも手のひらに走る痛みを皮切りに蠢き出した不安という名の化け物を飼い慣らそうと、もう片方の脳を必死に動かして一振りごとにほんの少しの修正を加えていく。剣術を知らなくても、知っている知識を応用すればきっとどうにかなると信じて。そして何より、逃げの理由を探すような自分の思考に嫌気が差して。
(例えばバッティングのインパクトの瞬間に一瞬握り込むアレ)
力強くグリップを握っていてもボールは飛ばず、遊びを持たせて数本の指でバットを支え、バットがボールに当たる瞬間にグッと握るとボールはよく飛ぶという話を聞いたことがあった。
(例えばテニスやバドミントンで腰を落とした方がすぐに動けるという構え)
思春期の子どもが同級生を馬鹿にしがちなあの“いかにも”というスポーツ的な構え。しかし実際にやってみると確かに踏み込みの勢いが違う気がするのだった。やはり体の使い方にはきちんと理論があるのだと関心する。
(あと…こういう握る系の道具は腕の力でどうこうするんじゃなくて、身体から力を加えると良いんだよね、確か…っ!!)
身体を使う話など、カツキはスポーツくらいしか知らない。それも全国レベルの実力者だったような競技歴があるわけでもないが、応用の効きそうな話はそれなりに知っている。カツキはそれらの数少ない知識に縋り付くように、必死に反芻しながらひたすらに単調な素振りを続けてゆく。
「199ッ、200…ッ!!…ふぅ」
1日の目標回数を終え、ようやく一息つくカツキ。剣を置き、地面に座り込み、簡単なストレッチを行なって汗が引くのを待った。
(明日はいよいよここを出ることになる。旅なんてしたことがないし、多分想定以上に疲れることになるだろうけど…)
そんなことを考えながら空を見上げて月を見た。
(頑張ろうーー…)
やがてウィズが目を覚まし、見張りの交代となった。身体に溜まった疲労感に身を任せ、弾力のある草をベッドがわりに意識を溶かしてゆく。明日はようやく、この森から出る日なのだ。若干の期待感に胸を膨らませながらも驚くような速さで眠りの世界へと落ちていったーー。
・・・
ふわりと素直な風が吹き抜けてゆく。徐々に伸びだした前髪が揺られ、目元をくすぐってきた。森とは違った清々しさを感じて、思わず深呼吸をしてしまう。
「…〜〜!!!!!」
今、目の前に広がるこの景色には、風を邪魔するものが何もない。何もだ。
(ついに、ついに森を抜けたーー…!!)
そう、ここは森ではない。平原だった。どこまでも広がる清涼な自然の景色に、まだ見ぬ未知の気配を感じてしまう。今ボクの胸中には言葉にならない感動があった。それは代わり映えのしない木々以外のものを見たことに対してというのももちろんあるが、なにより生きて森を抜けられたことに起因する。
「意外と時間がかかってしまったわね」
ウィズも喜びを顔に浮かべながらそう独りごちた。西の魔女ーー、文字通り西にいると噂される魔女らしいが、実際に会ったという人はほとんどいないらしい。もはや御伽噺と何ら遜色のない存在のようなのだ。ただそれでも、僕の身に起こっている状況を解決するためにはそんな御伽噺レベルの存在に頼るしかないとウィズは考えているようだった。僕は、いなかったらその時に別の方法を考えよう、とウィズの考えを受け入れることにしている。どうせ目的もまともに見つかっていないこの人生なのだ。遠回りするくらいがちょうどいい。
「ウィズ、ここまでは一本道を進んできたわけだけど、これじゃ目印になるものもないし…。一回方角を確認しないか」
あの魔の森ともいうべき野生の世界で唯一人の形跡を感じた一本道は、盗賊の残した荷車の轍が道標となり森からの出口へと導いてくれた。しかし、良くも悪くもこのだだっ広い平原では闇雲に歩いた途端迷子になることは必至である。
「そうね。ちょっと待ってね」
そうして彼女が取り出したのは、盗賊の荷物の中にあったこの近辺の地図と方位磁針がわりの道具である。精度はそこまで良くない地図だそうだが、この近辺の概要を捉える程度には使えるレベルの地図だそうだ。現代で言うメルカトル図法に近いであろう馴染みの深い描かれ方をした地図を一緒に覗き込み、改めて向かう方角を定める。
「地図は上を北、そこから時計回りに東、南、西となっていて、ここに書かれているのは世界の中でも西よりの一部分なの。私たちがいた森は…多分、この森じゃないかなって思ってる」
盗賊が持っていた地図が一部分しかなかったことが幸いして、現在地の予想は立てやすかった。彼らが持っていた地図であるということは、彼らの活動拠点がこの周囲に限定されていた予測が立つからだ。気ままに暮らしていたディディはもちろん、突然森で目覚めたカツキと誘拐されていたウィズは正確な位置を把握できるはずも無く、一時は途方に暮れたものだ。しかし災い転じて福をなすとはこのことでーー盗賊はこの辺りを根城にするグループであったと仮定したうえでーー彼らが持っていた地図に目立った森は2箇所ほどしかなかったのだ。広さから考えても、おそらく僕たちがいた森はこの西を埋め尽くす形で表記された「最果ての森」と呼ばれる極西の森ということで間違いなさそうだ。
「うーん…、このまま少し南下して、「最果ての森」を迂回するように西へ回り込むのが良さそうね」
「そうだね…。でも、とりあえず物資の状況を考えると、町か村に寄る前提で考えた方がいいんじゃないか?例えば…こことか」
僕は地図の一点を指差して見せた。それはここから南に進んだ場所にある小さな集落のようで、ちょうど現在地と西の荒野と呼ばれる地域の中継点に当たる場所に立地していた。
「ヴェストね…」
彼女は少し悩むそぶりを見せたが、革袋の方をしばらく見つめた後「そうね」といい地図を畳み始めた。
「ヴェストは立地が立地だから、お世辞にも治安のいい場所とは言えない町って聞いたことがあるんだけど…。でもどのみち食料調達は必要だし、悩んでも仕方がないわよね」
「そっか…。ならあまり長居はせずに、あくまで補給のために寄るようにしようか」
「うん、そうしましょう」
「街にいる間は隠れてもらうことになるだろうけど、我慢できるかディディ」
「少しくらいならいいけど、街の外で待っていちゃダメなわけ?」
やっぱりそんなに乗り気じゃないよな、と申し訳なくなるが、治安が悪い街でに妖精が飛んでいたらすぐに標的にされるのは目にみえている。
「誘拐されて、売り飛ばされても知らないよ?それに町の外で過ごしたとして、合流するのが大変だし…」
「う…っ、わかったわよ…」
渋々といった形で納得をみせるディディ。これは道中のどこかでご機嫌をとっておく必要があるだろう。どうしたものかと悩むが、今考えても仕方がない。一旦棚に上げておくことにする。
「ありがとう。ディディが近くにいてくれれば身を守る意味でも安心できる」
ちょっとうざいかな、と思うも正直な気持ちなので伝えておくと、ディディは少し機嫌を持ち直したようで、踊るように僕たちの周りを飛び交い始めた。
「〜♪」
そんな気分屋の鼻歌をBGMにウィズとの話に戻ることにする。
「それで、南はどっち?」
「ちょっと待ってね」
ウィズは右手に持った方位磁針がわりの魔道具ーー“神の道標”と呼ばれるらしいーーにごく少量の魔力を注ぎ込む。神の道標は懐中時計のような形状をしているが、特徴的なのはその盤面だ。ガラスのような正方形の盤面が嵌め込まれ、その盤面が9等分されるように線が引かれている。中には液体のようなものが満たされており、マス一つ分の気泡が見て取れた。何もしない状態では、その気泡は中央のマスに位置している。しかし一度魔力を流すとその気泡が動き、北の方角に向けて気泡が移動することで方角がわかるようになるのだそうだ。イメージとしては工具の水平器に近い。
「うん、こっちが北だから、私たちが進むのはこっちね」
そういって気泡の示す方角とは反対の方向を示すウィズ。
「この方位磁石…じゃなかった。神の道標はどういう仕組みで動いてるの?」
「ごめんなさい、これは私も良くわかっていなくて…。確か星の仕組みだった気はするんだけど…。今度機会があったら調べてみるわね」
彼女は申し訳なさそうにして見せるが、僕はむしろそれが普通だと思っているタイプであり、謝られることにちょっとしたバツの悪さを感じてしまった。手元でスマホを操作すれば簡単に調べ物ができる時代って素晴らしかったんだなと改めて実感する。
「いや、気にしないで。調べるなら僕が自分で調べるよ」
「じゃあ、私も気になるし、一緒に調べましょう」
ウィズは首を振りながら、約束ねとそう言って笑う。そして彼女が神の道標を首からネックレスのように下げたことを皮切りに、話を切り上げた。
「よし、行こうか。…ディディ、行くよ!」
広々とした空間を満喫するように飛び回っていたディディを呼び戻す。
「はーい!」
「先に行くぞー」
「ディディちゃん、こっちですよー」
空中を飛ぶだけあってディディの移動速度は速い。それは多少羽が不恰好でもだ。それはもうわかりきったことであり、多少歩き出したところですぐに追いつくだろう…、そんな風に考えてゆっくりと歩き出すと、東の方角…つまり森を背にした平原の方からドドドドドドッという地鳴りのような音が響いてくることに気づいた。思わず三者三様に立ち止まって音の方向を見てしまう。目を凝らし、音の方向を見据えてみると、何やら巨大な土煙が上がっていた。そしてその土煙の発生源には、何か高速でこちらに向かってくる群れのようなシルエットが見える。
それは2足歩行のトカゲのような化け物だったーー。
距離感が遠いため正確な所はわからないが、恐らく成人した人間の身長程度の体格はあるのではないだろうか。そんなものが、車を超えるレベルのスピードでこちらに迫ってきているのだ。しかもそれらは悠に2桁を超える集団で形成された群一丸となっていて、隙間という隙間がない。それだけの“暴力”が寸分の狂いもなくこちらへ向かってきているなど、一体何の冗談だろうか。
「なぁ、ウィズ。何か高速で駆けてくる化け物の群れみたいなものが見えるんですが…」
ギギギ、と錆びついたロボットの首の動きを再現するかのような動作でウィズに問い掛ければ、彼女もまた顔を青ざめさせていた。
「あ、あれは…おそらく…」
彼女もまた、高速で迫り来るその群れを前に体が硬直してしまっているようで、呆然とした様子だった。
「ーーア、“突撃蜥蜴“ですッッ!!とにかく、今すぐ横に飛んでーーーっっ!!!」
南へ向けて駆け出した彼女の叫びが周辺に響き渡ると同時、その声に叱咤される形で僕とディディもがむしゃらに逃げ出した。
ーーそれぞれ北と南に向けて。
あっという間にその姿が肉眼で捉えられる程の距離まで詰めてきていた突撃蜥蜴は、僕の後ろ30センチほどの距離を掠めていき、これまた風のような速度で駆け抜けていった。まるでジェットコースターに乗った時のように、股間を寒い風がヒュッと抜けていく。地響きに従って身体は冗談みたいにぽんぽんと跳ね上がり、まともに立っていることもできない。天然の硬いベッドに無理やり打ち付けられる痛みに耐えながら必死に身体を丸め、頭を守り、突撃蜥蜴が過ぎ去るまでじっと耐えることしかできなかった。恐怖のせいかやけに体感時間が長く感じられてしまう。そんな永遠にも感じられた数秒の地獄もようやく終わりを迎え、徐々に遠ざかる地響きの音とともにゆっくりと立ち上がることに成功した。あぁ、地面ってこんなに落ち着くのか。そんなよくわからない感慨とともにゆっくりと目を開けて、すぐに後悔する。あたりには想像を絶する土煙が巻き上げられており、まともに目を開けることすらままならなかったのだ。ならば声でと思い、2人に向けて大丈夫かと叫ぼうと息を吸った途端、次は巻き上がった砂埃に喉をやられてしまった。
「ゲホッ、ゲホッ!!」
口元を腕で覆い、改めて薄らと目を開ける。まるで嵐のような出来事だった。およそ生き物程度が長時間出していい速度ではない。改めてこの世界の生き物の基準を引き上げる必要がありそうだった。そんなことを考えながらもまともに悪態をつくこともできず、クソっと心の中でぼやく。すると近くで「けほっ」と可愛らしい咳払いが聞こえるのが分かった。
「…ーーウィズかっ!?」
袖を口元にあてマスクのようにしているため、くぐもった声で僕は問いかける。
「…え、えぇ、私は無事です…っ!」
よかった、と声の方へ駆け寄る。幸いここは平原ということもあり、吹き抜ける風が徐々に砂埃を攫ってあたりの風景を鮮明に整えてくれている。すぐに地面に倒れ込むウィズの姿を捉えることができた。彼女もまた口元を隠すように身を守る体制でうずくまっているようだ。
「ウィズ、大丈夫か?」
「えぇ、特に怪我もないみたい…」
ちょっと打った所がいたいですけど、という彼女を支えるようにして、特に目立った傷もないことをざっと確認し、そのままゆっくりと起き上がらせる。
「何だったんだあれ…」
「多分、突撃蜥蜴は一定の周期になると食料を求めて駆け回るらしいからそれじゃないかな…。幸い草食だから私たちには目も暮れず行ってくれたみたいだけど…」
なんて本能に純粋な行動原理だろうか。あれが食料を求める動物の動きだなんて信じたくないものだ。
「旅の開始早々とんでもない目にあったな…」
ふぅ、と一息つくと一気に身体の力が抜けてしまい、どさっと地面に座り込んでしまった。
「無事でよかった〜!!」
「そうだね…」
あと一歩遅ければ轢かれていたであろう状況は思い出すだけでもゾッとする。時速数十キロのスピードで突進してくる巨大な蜥蜴など考えたくもない恐怖だ。とにかく彼らにはお腹いっぱい食料を召し上がっていただきたいものである。
「おーい、ディディ、無事かー!」
僕とウィズが先行してきたこともあり、彼女が北側に逃げていったことまでは確認していた。どちらかというと群れは南よりを掠めていったため、無事だろうとは思うのだがーー。
「ディディちゃーーん!!」
ウィズも声をあげて安否を確認する。だがやはり、返事がない。少し焦りながらも、暴れる心臓を押さえるように胸を握り込み深呼吸する。ようやく砂埃も落ち着いたため、周囲を確認する。大慌てでウィズと元いた場所を確認するが“プチっ”とされた形跡は見当たらなかった。とりあえず最悪の事態を免れたであろうことが確認できて安心するものの、実際にディディはこの場にいない。
「あいつは軽いし、飛んでいたから…巻き上げられたかーー…??」
あれだけ砂埃が舞い上がっていたのだ。ディディなど一緒に巻き上げられていてもおかしくないだろう。
「カツキさん…」
ぶつぶつとディディのいるであろう方角を考察していると、しゃがみ込んで地面の様子を観察していたウィズが声をかけてきた。その口端はピクピクとしており、彼女の焦りを窺わせた。
「どうしたの?」
「あの、この突撃蜥蜴の足跡なんですけど…」
そう言って彼女を指差す方向を見ると、ちょうど僕たちの元いた場所を起点に、90度曲がって駆け抜けていったようなあとが残っていた。
「おい、これって…」
進行方向から90度、そして僕たちとは逆方向に駆け抜けたということはつまりーー…
「ディディちゃんが、いた方向なんじゃないかな…」
それの抉れた地面の跡は、まさに突撃蜥蜴が北に駆け抜けていったことを示していた。体感時間が長かったのではなく、ここで方向転換する時間の分実際に時間を要していたのだと今更気づいた。それはつまり、同時にディディが突撃蜥蜴方向転換に巻き込まれたということを意味しているわけでーー。
「まじかよ…」
茫然自失とはまさにこんな状態を指すのであろう。なんにせよ、一刻も早く北に進んだ化け物を追いかける必要があることだけは確かだ。
こうして僕たちの旅の始まりは、開始早々計画とは真逆の方角へと進むことを余儀なくされたのであったーー。




