002 見てみぬふりの見てみぬふり
すっと目が覚めた。辺りに満ちる湿った土の匂いが、朝露を零し幻想的に霧がかった森林のイメージを想起させ脳をくすぐる。まだ木の根本から出た訳ではないが、外は未だに薄暗く辛うじて日の出といった時間帯のようだ。
(それもそうか、向こうで言えば夕方の18時前後に寝たことになるもんな)
今までの生活からすれば考えられないほど早い。だが夜の森は覚悟していた以上に何も見えなかった。知識一辺倒の自分が立てる見通しの甘さと実際の有り様との差異を痛感したのはいうまでもない。そんな状況では寝た方がよほど建設的だ。
(そもそも僕の常識がどこまで通用するかもわかんないんだよな…)
うっすらと、ここが自分の世界と異なる場所であることは察しつつあった。だが現状、劇的な差異を感じる出来事はなく“認められていない”という心理状態に近い。
「どこなんだろうな、ここ…」
苦笑混じりに呟く。そこでぐぅ、とお腹が鳴った。
(目が覚めた原因はこれかな)
手元にある果実を見る。黄色い果実はまだまだ新鮮そうで、傍目には美味しそうに映る。
(覚悟を決めよう。最悪毒でも、致死性の毒林檎なんてそうそうないと思うし)
せいぜい吐いたり腹痛がしたりするだけさ、と引けない状況を無理矢理肯定して一口齧る。こりっと少し硬めの音がした後、果実の中心部に向かって歯が進むほど柔らかい果肉がずっしりと詰まっていることに気づいた。
「甘い…!!」
見た目は林檎だが中身は熟れた桃のような味がした。予想外の美味しさに思わず唸る。甘さの割にさっぱりとした後味で、恐らくそれはこの溢れんばかりの水分量によるものだろう。喉の渇きもある程度満たしてくれた。水の確保は水源に頼らなければならないこの環境では、まさに一粒で二度美味しい、そんな果物だった。
「これは当たりかもしれない」
あっという間に二つほど平らげてしまう。お腹も最低限膨れたため、残りは次に回す事にした。
(さて、そろそろ日も昇りはじめた頃かな)
入り口を雑に隠した植物を軽く避けて、隙間から外を伺う。ーーが、直ぐに首を引っ込めて息を殺した。
「…!?」
今ほど自分の慎重さを褒めたいと思ったことはない。ゆっくりと、音を立てないように気をつけながら外を窺う。視線の先、距離で言えばおよそ10mの所に“明らかな化物“がうろついていたのだ。身長は130センチほどだろうか。薄緑色の、どちらかといえば黄土色に近い不健康そうな肌。尖った鼻と耳。黒ずんだ爪と牙。オレンジ色に爛々と輝くぎょろりとした瞳。身体にはいくつかの傷跡が、そして左耳は裂けたような痕があり、戦闘経験の蓄積を窺えた。
(小鬼、ってやつか?)
嫌な汗が流れた。ゲームで言えば取るに足らない雑魚モンスター扱いだが、とんでもない。視界に入った瞬間から心臓が煩く警告を発する。現実で遭遇するとそれが正しくモンスターであり、とてもじゃないがすすんで喧嘩を売りたい相手でないと言うことがよくわかった。小柄だが筋肉質な身体。ボロボロとはいえ袋のようなズボンを履いており、更にはナイフを扱うだけの知能もあるらしい。
(何だあれ、あんなのが居ていいのか)
自分の心臓の音が酷く煩い。呼吸がままならず、大きな音を立てて深呼吸したくなるのを無理矢理抑えているため、時間が経つごとに更に息苦しくなる悪循環。そもそも他人から刃物を向けられた経験などない。喧嘩さえまともにしたことがない。情けないとは思うが、戦う自分のイメージすらまともに湧かないのだ。
(無理。隠れてやり過ごそう)
どこか落ち着かず、半ば無意識に桃林檎を手に取る。
(今まで出会わなかったのは偶然?いや、夜行性なのか?…とりあえず観察だけはしておいて、突然遭遇することがあっても逃げられるように備えよう)
小鬼はキョロキョロと周囲を伺うように不規則に動き回っていた。あまり我慢強くはないのか、時折怒りを発散するかのように手に持ったナイフを振りまわして周囲の草木を散らかしている。
(器用な雰囲気も物を作り出せるような知性もない気がするけど…)
考えすぎかなと思いながらも、肌で感じる恐怖はしっかりと楔となってこの場へ足を縫い付けるのだった。
・・・
観察を続けて、体感で早数十分が経過していた。既に日は十分に木々の隙間を照らしている。小鬼が夜行性だという説は、いよいよ信憑性を失いつつあった。小鬼の探しているものが寝床の類であれば、最悪ここから動けなくなるのではないかと冷や汗を流しもしたが、どうやらそうではなく“何か”を探しているらしい。その探し物もこの近辺には無いと判断したらしく、ゆっくりとだが着実に小鬼はこの木から遠ざかっていた。周囲に薄らと広がる朝霧も相まって、いよいよ小鬼は木々の奥へと姿を消した。
(よし、やっと動ける…っ)
ぶはぁ、と大きく息を吐く。吸う。吸う。吸う。途中から無意識に呼吸を止めていたらしく、予想外に大きな声が出てしまった。ピークから一気に弛緩した緊張から、思わず自分に笑ってしまった。断続する緊張感と恐怖の中で、息を殺してただじっと隠れるという行為がどれだけ難しいかを体感できたのは行幸だったかもしれない。あと5分も同じ状況が続けば、冗談抜きに声をあげて飛び出していたかもしれないとさえ感じる。今後このような過酷さが続くようであれば、自分の我慢の限界ラインを知っているのは有用な情報となるだろう。
(緊張した時に自分の心臓が煩くなるのは、人の鼓動を聞くと落ち着く、っていうあれを身体が求めてる証拠だったりしてな)
そんなくだらないことを考えつつ外に飛び出し、ぐーっと伸びをする。
(あんな化け物がいるなら、できれば武器が欲しいけど…)
かと言って武器を探して1日が終わるなど本末転倒だ。とりあえず手頃な石を2つと50センチほどの丈夫そうな木の枝を拾う。日の登って来ている方角は転がり落ちた斜面の正反対だった。斜面はわざわざ登る必要もなく、日の出に合わせて毎日方角を確認できるなんてわかりやすくていい。進む方角は決まった。あとは道なり人なりを見つけるだけーー。
「kyyyyyyyyyyyyyyyyy!!!!」
さぁ、と出立しようとした矢先、奇妙な声がこだました。
(今のは…悲鳴か?動物やモンスターのものとは違う気がしたけど…)
声の方に目をやるが、対称的に足はジリジリと後ろに下がっていた。
(あっちは小鬼が向かっていった方だ…)
人かもしれないという淡い期待を塗りつぶすように再び恐怖が湧き上がり、剣替わりに拾った棒を握る手は鬱血しそうなほどに握り込んでいた。悲鳴の主は正体すら分からないが、こんな森の中で人がいる方が状況としておかしい。おかしいのはわかっているがーー…。
(考えるのは後。悩むくらいなら、この目で見た方が早い)
できるだけ静かに、けれど素早く木々の間を抜けてゆく。すると少し開けた場所がある事に気づいた。ちょうどその境界を成す木の一本に隠れながら、その空間で暴れている小鬼の様子をゆっくりと窺う。
自分のいる方角からはちょうど小鬼の背中が見える形となるため、何をしているかまでは見ることができない。だが、しゃがみ込んで何かに刃物を突きつけているのは間違いなさそうだ。
(くそっ、ここまで近づいてしまうと下手に動けないな)
自分の無鉄砲さに唇を噛む。だが小鬼の背中に隠せるものなど高が知れている。凡そ小動物の類いだろうとアタリをつけるものの、だからといって見過ごす理由にはならなかった。悲鳴をあげる何かが今、命を奪われようとしている。その光景に不快感が湧き上がり、やがてその不快感は沸々と怒りを吐き出し始めた。ポケットに手を入れて、拾っておいた石を握る。それを一息に藪の中へ投げ込んだ。狙いは向かって左側。投げた石は緩やかな放物線を描き、おおよそ狙った藪を揺らした。がさりと枝葉が擦り立てた音につられて、目論見通りに小鬼は身体を45度程回転させた。流石の小鬼も音の出所を警戒し、右手に持っていたナイフで身を守るような体勢を取る小鬼。丁度カツキから見ればゴブリンの左側を正面に捉えており、最も危険視すべきナイフを持つ右手が、その身を守るように不自然に交差している状態だ。しめた、と小鬼の背中で隠れていたものを確認する。
(…?足元には何も見えないが、一体何をしていたんだ?)
そういえば何かを探していたなと思い至るが、訝しく思いながら目を凝らして、その視線が小鬼の左手に至った時、何度目か分からない驚きに見舞われる。
(小人?いや、、、妖精だ…)
小鬼がその左手に握っていたのは、妖精だった。燃えるような真紅の髪を持つ小さな人の姿に、翅が生えているのがみて取れる。そこまで分かったところで、カツキの中で恐怖と怒りがその天秤を水平にする。妖精が人間の味方なのか。小鬼がどの程度の強さなのか。考えたところで答えの出ない問いが頭を高速で飛び回るが、そんなことより目の前で起こっていることに対する不快感が身体を突き動かした。
(どうする、どうする、助けられるのか僕はーー…!!)
小鬼は空いた手に持つそのボロボロのナイフを、今まさに妖精に向けて振りかぶらんとタメを作っていた。もう考えている時間は無かった。
「あぁあああああああ!!!!」
気づけば駆け出していた。恐怖を打ち消すように大声をあげて。
(怖い、怖い、怖い!!!)
心の中で恐怖が暴れ回る中、それでも「見逃す」という選択肢を取れなかった。ここで何もせず、あの妖精が殺されるのをみすみす放置することなど考えられなかった。
「くそっ、こんなこと、するんじゃっ、なかっ、た!!」
無意識のうちに武器代わりの棒は放り出していた。だが幸い、カツキが飛び出した方角は小鬼が妖精を掴む左腕側であった。たまたまとはいえ、その場所取りは熟練者の奇襲と遜色ない形を成している。また何故かこの世界に来て向上している基礎身体能力が、容赦なく小鬼との距離をゼロにする。それが下手な躊躇を許さず、また悩めるだけの時間をカツキに与えない。結果として小鬼のナイフが十分な威力を乗せるには、体勢も時間も不十分となる結末を引き当てた。
「お、らぁっ!!」
ドパンッ、と聞いたこともないような音を立てて小鬼の顔面に拳がめり込んだ。その衝撃で小鬼は妖精を手放し、自身は数メートル吹っ飛んだ。
「いってぇ、、、!」
真っ赤に腫れ上がった右拳を見る。
(殴るのって殴る方も痛いのか、、!)
理不尽だと思った。しかし、小鬼はまだ動けるようで、立ち上がり突進の構えを見せている。
「しぶとい、、!!」
人知れず獰猛な笑みを浮かべていた。アドレナリンが止まらないとばかりに、感じたことのない気の荒ぶりを感じた。恐怖もある。痛みもある。でも、喧嘩を売ってしまった以上逃げられない自覚はあった。もう後には引けない状況か、それとも喧嘩さえした事ない無知ゆえの暴挙か。カツキは小鬼へ向かって突っ込んだ。
考えることも馬鹿らしい。
わかりやすい命のやりとりがここにはあった。
「ギャアアアア!!」
「ああああああ!!」
殴る。殴る。殴る。目の前で暴れる爪と牙、それとナイフ。幾度となく切り裂かれる皮膚。心の底からの怖気を掻き立てる歪な声。殴るほどに勢いを増す抵抗。殺意のみで爛々と輝く見開かれた瞳。どうかもう目覚めないでくれと。半泣きになりながら、自分勝手に祈りを込めて殴る。もう何発叩き込んだだろうか。拳の痛みが分からなくなり始めた頃になって、ついに小鬼は気絶した。
(はぁ、はぁ)
どっと疲労感が押し寄せる。
(妖精、、はもうどっかいっちゃったか)
慣れないことをしたせいだろう。考えない方がいい。そう思い直し切り替える。
「妖精、見たかったなぁ…」
でも逃げられたのならそれでいいかと微笑んだ。
(ナイフだけ拝借しておこう)
右手にナイフを握り、小鬼を見下ろして考える。
「…」
小鬼。化け物。でも、生き物である事に変わりないとも思う自分もいる。殴った感触はあまりにも気持ち悪くーー…一発ごとに怒りが霧散し、自分の中のなにかがミシりと音を立てた気がした。
「殺しておくべき…」
この戦闘の火蓋を切ったのは自分だ。それでも、“この生き物“はおよそ理性を感じられない化け物だった。極め付けに顔も見られてしまったのだから、どんな報復を受けるのかも分からない。
(ここは、今までのように甘い世界じゃないのかも知れない…)
いずれはこの極限状態にも適応していかねばならない。それでもーー…。
「それでも、まだ僕は…」
歯を食いしばり、後に続く言葉も咬み殺す。
戦利品のナイフを持て余しながら、当初の予定どおり東へ向かって進み出した。




