スプリング・ガール
「私は『スプリング・ガール』――つまりは春の女なの。そう呼んで貰えたことはないけどね」
ウェーブのかかった黒髪をかきあげて彼女は言った。艶めく黒髪。僕は彼女の動作にいちいち目が奪われる。
喫茶店の窓側の席。僕たちはコーヒーテーブルを挟んで向かい合うように座っていた。
「それってどういうことなの?」
僕は彼女に訊いた。彼女は一口コーヒーを啜ってから答えた。
「春って何かわかる? 春は始まりの季節であり、出会いの季節であり、恋の季節。花粉症の季節、でもあるけどね」
彼女は笑みを浮かべる。その微笑みが余りにも綺麗で――それだけで僕はどきりとした。
「私はね、人を恋に落とす能力を持ってる。そう、私には『つぼみ』が見えるの」
「『つぼみ』って、花のつぼみ?」
「うん。人は鳩尾のあたりに『つぼみ』があるのよ。もちろん誰であっても。あ、付き合ってる人とか結婚している人は違う場合が多いかな。そういう人って、花が咲いてるからすぐわかるの。まぁ、たまに付き合ってても結婚しててもつぼみのままの人もいるけどね――なんでなのか、よくわからないけど」
つぼみ……。僕の胸にもつぼみがあるのだろうか。
「そのつぼみをね、私は咲かせることができるの。花が咲いたら、恋している状態になるのよ」
「つぼみを手で無理矢理開くの?」
「馬鹿ね、そんなわけないじゃない」
彼女は笑った。僕もつられて笑った。
「触れなくても、というより触れたことないからわからないけど、咲けっ!とね、咲かせたい人を思って念じるの。心の中で強く。そうしたら、その人のつぼみが開くの。綺麗な花が咲くの」
「そしたら、その人は恋しちゃうわけ?」
「そうなのよ……」
と彼女は意味ありげにため息を漏らした。
にわかに信じがたい話だ。人に恋をさせる、なんて。しかし、もしかしたら、この気持ちは――。
「そうね……、隣のテーブルを見て」
僕の耳に彼女は自分の口を近づけて、声をひそめて言って。その行動が、僕をひどく困惑させた。心拍数があがり、顔は熱くなる。
脈が落ち着くのを待ってから、隣のテーブルを見た。隣には若い男女が座っていた。男は女を熱い眼差しで見つめている。しかし、女の方は退屈そうにしていた。男の言葉は右から左へと抜けていそうだった。
「男の人は咲いてるのよ。赤い花が満開。きっと情熱的な人なのでしょうね。でも女の人はつぼみなの。開くことのないつぼみって感じ。――二人を見ててね」
と言って彼女は目を閉じた。僕は二人を見てろといわれても、彼女から目が外せなかった。僕はキスしたくなる衝動を抑えて、彼女を見つめた。
数秒経って、彼女が目を開けた瞬間、僕はすぐ目をそらして二人を見た。
見てみると、どうしたことだろうか。さっきまでは女は退屈そうに指を動かしたり、視線はコーヒーカップに向けられていたのが、今は男をじっと見つめて、楽しそうに口を動かしていた。
「ねっ? 恋の対象もちゃんと選べるの」
彼女は私をじっと見てそう言った。私はくらりと倒れてしまいそうだった。彼女の瞳が水晶のように透き通っていたからだ。
「でもね、何でもできるってわけじゃないの。意中の相手や、私が良いと思った男性には絶対に効かないの。私がいいな、と思った人を私に惚れさせることはできない。なんででしょうね」
ふうと彼女は悲しげにため息をついた。
「私、ちょっとした出来心だったの。成功するかなって試したのよ。悪気はなかったの。きっと、あなたの場合も効かないだろうな、って思ってたから……」
彼女は少し悲しそうな表情を浮かべた。僕はその表情を見てどきっとすると共に、この感情を信じようと思った。
「それで、僕にかけたら成功したってことだね?」
それが、たとえ彼女の不思議な力によって引き起こされたものであろうと、この感情は自分の物に違いないのだから。
「そうなの。貴方には悪いことしたわ。ごめんなさい……」
「謝ることはないよ。実はね、と言ってももう気づいていると思うけど、君のことが好きなんだ」
本心だった。彼女と会ってまだ間もないけれど、この喫茶店で一人寂しそうに座る彼女を見て――自然に彼女の椅子の前に座り、彼女と話していた。
彼女の話を信じるなら、彼女がその能力を使って僕を惚れさせたのだろうけど、今、彼女を見てときめくこの心は確かなものだ。
彼女の綺麗な瞳に引き込まれるのも、彼女の綺麗な髪を見とれてしまうのも、彼女の形のよい唇にキスしたくなるのも、全部僕自身の感情だ。それは間違いない。
「僕は何も後悔もしていないし、君のことも恨んでない。ただ、君のことが好きなんだ」
彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。
君はそんなこと気にする必要ないのに。
僕が勝手に好きになっただけなんだから。
「でもね……。あなた、同性好きになるのこれが始めてでしょ?」
確かに同性を好きになるのは初めてだった。
「そんなの関係ないよ」
僕は彼女のことが好きなのだから。
僕は彼女を見つめた。彼女は僕から目をそらし、ガラスの方に目をやった。
彼女につられて僕も外を見る。ガラスの外では、三月の雪がちらついていた。最後の雪はもうすぐ終わり、春はこれから始まるのだ。
「電撃リトルリーグ」でいつか投稿した作品。お題は「スプリングガール」
残念ながら落選w ふと見てみると、同じくスプリングガールを投稿していた方がいらっしゃったので、便乗という形で投稿です。
投稿にあたりちょい書き直しと書き足し。