人形③
何だか不思議な空気が流れていた。
固く握りしめられた腕から、緊張が伝わってくる。
帰ろうとする俺を引き留める南條さん。
見ようによっては誤解を招きかねない構図だ、なんて思ってしまう。
「あー、うん……あんたは何も聞かないのね」
「……聞いて欲しいのか?」
「ふふっ、この間もここで同じような話をしたわね」
「そうだな」
数分のぎこちない沈黙を破り、前回の時と同じようなやり取りが再現された。
どこか自嘲気味な所までそっくりだった。
南條さんには恩がある。
力を貸せるものならいくらでも貸したいと思う。
だけど、家族の問題ともなれば、さすがに俺には荷が重い。
――そもそも俺は、自分の家族の事でさえ上手くいってるとはいえないのだからな……
「あたしね、実は両親と一緒に過ごしたって記憶がほとんどないんだ……幼い頃の世話はお手伝いさんだったしね」
「……それは」
ぽつぽつと、何か事務的なことを確認するかのように、呟き始める。
その声はいつになく陰を落としていた。
「あたしに求められるのは、ただただ自分たちにとって都合の良い娘。事業の足かせにならず、対外的に利益になる様な娘であることだけ……あぁ、でもその分お金は相当額を投資してくれたわ。それは今もね」
「ブラックカードか……」
「あたしはただ、普通に……ねぇ、倉井っ!」
「南じ……えっ?!」
一瞬の出来事だった。
自分でも何をされたかわからなかった。
気付けば俺は、ソファーの上に仰向けで押し倒されていた。
合気道の技か、これ? 一体何の……
困惑する俺に、南條さんが乗っかってくる。
怪し気な笑みを浮かべ、たどたどしくも艶めかしく胸を弄ぐってくる。
ゾクゾクと背筋に甘い様な痺れが走り、状況の理解の困難さに拍車をかける。
「ね、倉井はあたしのこと、嫌い?」
「それは……」
そんな事を、耳元で甘く囁いた。
卑怯な質問だと思った。
どうしてそんな質問をするかわからなかった。
耳元にかかる吐息が、俺の男としての本能を刺激し理性を溶かす。
煽情的に胸元で蠢く指が、俺の劣情を誘っていく。
そして南條さんは器用にも片手で制服のカーディガンをはだけさせ、ブラウスのボタンをいくつか外していった。
……
嫌いな筈がない、恩人だとさえ思っている。
俺の上に居る南條さんをよく見てみれば、身体は固いし動きもぎこちない。
どう見てもこういう事に慣れてはいないし、無理をしているというかなんていうか……
熱を誘うようにする南條さんに対し、俺はどんどんと頭が冷えていった。
そして何より――
「ね、あたしを抱――」
「――阿呆か!」
「痛っ! 何すん……の……よ……」
「南條……」
――俺の腹が立った。
思わず思いっきりげんこつをかましてしまった。
力が籠り過ぎたせいか、南條さんは涙目になっている。
両親への当てつけか? ただの自棄か? それとも鬱憤晴らし?
言いたいことは色々あった。
恐らく、南條さんの中でも突発的にやってしまったことなのだろう。
俺も……俺も片親だったので、少しだけ気持ちが分からなくもない。
だけど、どうしても言いたい事があった。
「なぁ、平折と友達になったんだろう? 違うのか? 辛い事とかさ、相談できないのかよ? ……俺だってさ、愚痴を聞くことくらいなら出来るしさ……」
「倉井……」
腹が立つと同時に、哀しかった。
大切なことを誰かに言えない南條が、平折を信じ切れていない南條が、お前にとってはそんなものだと言われている様で、悲しかった。
「俺を……俺達をバカにするなよ……」
「…………ごめん……うん、ごめん。あたしバカだ。うん、バカをしちゃった。お願い忘れて、今の」
多分、俺は涙目になっていた。
きっと酷い顔になっているだろう。
「……今日は何もなかった」
「……ありがと」
そう言ってシュンとした南條さんは、のろのろとブラウスのボタンを留め始めた。
よくよく見れば、スカートもかなり際どいところまで捲れている。
……冷静になって見てみれば、物凄い恰好だった。
もし康寅にでも見られたら、殺されても文句を言えないかもしれない。
あまりに刺激的な光景だったので、目を逸らして頭を無意味にガシガシと掻きむしる。
「……くすっ」
「……なんだよ」
そんな俺をみて、南條さんはいつもの悪戯っぽい顔で笑った。
少しだけ、ホッとしたような気分だった。
「なぁに? もしかして、実はちょっと惜しかったーなんて思ってんの?」
「うるせーよ……頼まれても手は出さねーって、前の時に言っただろう?」
「くっ、……あはっ、あははははははっ! そうだった! そうだったわよね!」
「……そうだよ」
南條さんの心底可笑しそうな笑い声が、陰鬱だった部屋の空気を吹き飛ばしていく。
その顔にもう陰りはなく、何かを吹っ切れたかのように清々しかった。
「あんた、やっぱり変われるよ」
「……そうかい」
「ね、一つお願いがあるんだけど」
「無茶なのは止めてくれよ」
そう言って先ほどとは違う、今までにない真剣な表情になる。
雰囲気に呑み込まれ、思わずこちらも居住まいを正してしまった。
「南條って名前嫌いなんだ……なるべく凛って名前で呼んでくれない?」
「わかったよ、南じ――凛」
「うんっ!」
「っ!」
それはあまりに無邪気で――初めて見る本物の笑顔だった。
不覚にも、初めて南條……凜の事を、可愛いなんて思い知らされてしまった。
◇◇◇
南條……凜の家で色々あって、頭の中をすぐに切り替えられるほど、俺は器用じゃない。
少し頭の中の整理も兼ねて、平折に告げた当初の予定通り本屋に寄った。
本屋では、最近人気のグラビアアイドルだかのポスターがあり、写真集が大々的に売り出されていた。
――平折や南條凛も、負けていないよな。
そんな事を思いながら、料理のレシピ本コーナーに向かい、いくつかを見繕う。
平折も南條凛も飛び切りの美少女だ。
そんな事を思い、そして先ほどの南條凛の気の迷いを思い出さない様にしながら家路に着いた。
「ただいま」
すっかり日が傾き始めた玄関は薄暗かった。
人気のない家はどこにも明かりが点いておらず、少し物悲しい感じがする。
――平折も弥詠子さんもいないのか?
そう思い、自分の部屋へと向かった。
そして、我が目を疑った。
「……え?」
「すぅ……すぅ……」
どうしたわけか、俺のベッドの上で眠る平折が居たのだ。
俺の枕を抱きかかえるようにして無防備な姿をさらしていた。
その恰好は、以前一緒に買いに行った服装だった。
ノースリーブの肩口からは下着のストラップが見えているし、スカートも相当際どく太ももの付け根を晒している。
はっきり言って目の毒だった。
時折身動ぎしながら、「ん~」と安心しきっているかのような声を零している。
何故? どうして?
そんな疑問が沸き起こるが、自分の為にも早く起きて欲しくて、平折を揺さぶろうとした。
「おい、起きろ平お……り……」
「んっ……」
だが、その手も止まってしまった。
その目尻に涙の跡が見えたからだ。
一体何が……?