1.注がれる視線
ある日の午後、私の元に一通の手紙が届けられた。
差出人はケルティア村に住む女性、エドナさん。
先日、私が視察で向かった最初の村から来たものだ。メイドからそれを受け取った後、早速部屋に戻って読んでみる事にした。
──イーリス・テネレッツァ・ディアドコス様へ。
丁寧な字で書かれたその手紙には、私とお兄様に対する感謝の意が綴られていた。
私はディアドコス伯爵家の娘として、当主である兄のサポートをしている。
手紙の差出人である女性の住む村へ視察に向かったのも、お兄様からの指示があったからだ。
彼女は今回の事に深く感謝しているようで、封筒にはそのお礼の品が同封されていた。
中に入っていたのは、六角形に削られた木の板が一枚。私はそれを手に取って、よく観察してみる。
「これは……エルフ族に伝わる加護のお守り、だったかしら」
手のひらに収まるサイズの板には、複雑な模様が刻み込まれていた。まるで魔法陣のようなそれからは、確かに魔力が感じられる。
少なくとも、彼女にはエルフの特徴である尖った耳は無かったはずだ。ならば、彼女の知り合いにエルフが居る、とか……?
「……考えたところで、すぐに答えが出る話ではないわね。ひとまず、これは大事にさせてもらいましょうか」
私はそのお守りをそっとポーチに入れ、それを手にして部屋を出た。
今日は、友人とお茶会の約束がある。そろそろ彼女の屋敷に向かう頃合いだろう。
彼女は他国の文化に興味のある子だから、きっとこのお守りを見せたら喜んでくれるはずだ。その反応を想像するだけで、自然と口元が緩んでしまう。
事前に馬車の用意は頼んである。
準備が整うまで書斎でくつろぎながら本を読んでいると、扉をノックする音と、聞き慣れた声がした。
「イーリス、ここに居るかしら?」
「はい。イーリスはここにおりますわ、お母様」
返事をすれば、すぐにその声の主が入って来る。
雪のように白い髪と、落ち着いた緑色の瞳。
私とお兄様は、お母様からその特徴を受け継いでいる。
そんなお母様は、いつものように書斎に入り浸る私を見付けると、少し不安げな表情を浮かべながら言う。
「……これからお茶会に向かうそうね、イーリス。けれど、今日はやめておくべきじゃないかしら?」
突然そんな事を言い出したお母様に、私は読んでいた本に栞を挟むのも忘れて抗議した。
「どうしてですか、お母様? 彼女との付き合いは、昨日今日の話ではありません。是非とも理由を聞かせて下さい」
エニアは、私と同じく貴族の人間だ。
彼女の家とディアドコス家は良好な関係のはずだし、これまでだって私とエニアのやり取りは何度もあった。彼女をこの屋敷に招いた事だってある。
それなのに、どうしてお母様はこんな提案をしてきたのだろうか。わざわざ私を探して、書斎にやって来てまで……。
「最近、この近辺で不審な人影が目撃されているそうなの。騒ぎが落ち着くまでは、あまり外出するべきではないと思うのだけれど……」
「不審な人影……? お兄様は、それについて何か仰っているのですか?」
「町の巡回に人を増やすそうよ。屋敷の警備も、普段より厳重にするよう命じているわ」
領主には、領民を護る責任がある。
彼ら領民から税を徴収する代わりに、私達はその収入によって問題に対処し、領民達の安全な生活を保障する。
それを維持する事こそが、我らが国王陛下から与えられた、重要な役割なのだ。
もしかしたらその不審な人影は、我が国を脅かす他国の間者である可能性がある。
ならば、お母様の言葉に従うべきなのかもしれない。
そう思い至った私は、少し肩を落としながらも顔を上げた。
「……お母様の仰る通り、今日のお茶会は中止するべきでしょう。エニアには、後で謝罪の手紙を送る事に致します」
「ええ、そうして頂戴。それから、もう一つ確認しておきたい事があるのだけれど」
これで話は終わりかと思いきや、お母様はまだ私に用事があったらしい。
すると、お母様は不安の色をより濃くする。
「私の言い付け通り、無闇にあの魔法を使ってはいませんね? あの魔法は、あまり公にしてはならないもの……。それに──」
「心配はご無用ですわ、お母様。小さな頃から何度も言い聞かされて育ちましたもの」
「……そう? なら、良いのだけれど」
……危なかった。どうやら上手く誤魔化せたらしい。
お母様は他人の嘘を見抜くのは不得手だから、貴族社会で感情を表に出し過ぎないよう教育された私にとって、特に困難ではない相手だった。
お母様は何を心配しているのか分からない。けれど、私だって自分からあの魔法を……宝石魔法をひけらかすような真似をしようとは、一切考えていない。
この魔法は珍しいもの──特殊魔法に分類されるもので、これを扱えるのは私とお母様ぐらいしか居ない、という事だけは分かっている。
宝石魔法は、生み出す宝石の色によって、そこに内包される魔力の性質が変化する。
例えば、赤い宝石ならば炎、青い宝石ならば水の性質を持った宝石が出来上がる。
それは鉱山などで採れる宝石も同様で、その性質を利用して武器に属性を付与するなんて事も可能なのだ。
宝石とは、自然が生み出した奇跡と、溢れる魔力の結晶体。つまり、私やお母様が生み出した宝石の魔力源は、私達自身になる。
宝石を作りすぎれば、魔力の使い過ぎに直結する。魔力のコントロールに慣れない頃は、早く上達しようと無茶をして、急に意識を失ったりもした。
そんな私の魔法の師であったのが、同じ宝石魔法を操るお母様だった。
「馬車の支度をさせたのでしょう? なら、外出は中止になったと私の方から伝えておくわ。貴女はエニアさん宛てに、なるべく早めに手紙を書いておくのよ?」
「はい、分かりました」
それじゃあまた、夕食の時間に。
と言い残して、お母様は書斎を後にした。
私は言われた通りにエニアへの手紙を書く為、読みかけだった本を棚に戻して部屋を出──
「……? 今、窓の外に何か……」
──ようとしたその瞬間、書斎の窓の前にある木の上に、人影のようなものが見えた気がしたのだ。
けれど、違和感を覚えたその場所には、おかしな点は見当たらない。
風に揺れる木の葉が、偶然人の形に見えただけだったのだろうか。
真相は分からないけれど、それでもお母様からあんな話を耳にした直後だ。
少し気味の悪さを感じた私は、自室に戻る前に、テロスお兄様の執務室に報告へ向かう事を決めた。
その日の夜。
普段以上に張り詰めた空気の中、私はなかなか眠りに就けずにいた。
町で目撃されている妙な人影の正体も分からないうえに、昼間に感じた窓の外の件もある。お兄様は私の報告を受けて、より一層警備を厳重にした。
眠りを促すように願って、厨房に顔を出してホットミルクを用意してもらったのだけれども、眠気は一向にやって来ない。変に緊張してしまっているのだろうか。
「……こうなったら、眠くなるまで本を読むしかないわね」
読書をする為の大義名分のようになってしまうけれど、眠れない時は本を読め、というのはよく耳にする言葉だ。
実際は本を読んで頭を使う事で、より目が冴えてしまう人も居そうな気がする……というか、私がそのパターンなのだけれど仕方が無い。
何もせず、ぼうっとベッド中で無意味な時間を過ごすのは、何だかとても勿体無い気がしてしまうんだもの。
気が付けば、子供の頃にお父様に買ってもらった置き時計の針は、既に深夜を指し示していた。
結局いつも通りの夜更かしをしてしまう結果になってしまった。しかし、丁度眠気が襲ってきたので、そろそろ寝巻きに着替えてしまおうかと思っていた、その時だった。
パリーンッ‼︎
という破壊音で、私の眠気はどこかへ飛んでいく。
「な、何……⁉︎」
どこかで何かが割れる音がした。
それを理解した次の瞬間、ゾワリとするような悪寒が駆け抜ける。
何か、異常事態が発生している。
生物としての本能のせいか、自分の脳が激しく警鐘を鳴らしていた。
寝巻きのままで部屋を出てはいけないけれど、そうも言っていられない。
すると屋敷のどこからか、住み込みで働かせているメイドの悲鳴が聞こえてきた。
「早く、助けに向かわないと……!」
急いで部屋を出ようとドアノブを握った瞬間、今度は私が大きく悲鳴を上げる。
金属製のドアノブが、何故かとてつもない高温に熱せられていたからだ。
熱いというより、痛みが勝る。手を火傷してしまったらしい。
「何なのよ、これ……!」
訳の分からない状況に泣き出しそうになりながら、私は近くにあった膝掛けでドアノブを包み込んだ。
私はじんじんと痛む右手を左手で補助するように、布で熱を遮りながら扉を開く。
その先に広がっていた光景は、悪夢ようだった。
屋敷の廊下は炎に包まれており、壁紙や絨毯がごうごうと燃え盛る。
またどこからか、悲鳴。
そして、助けを求める声。
私は目の前の現実を受け止めきれず、すぐには動く事が出来なかった。
数秒か、数分か。それとも、もっと時間が経ってからだろうか。
ようやく頭が回り始めた私は、これからどうするべきかを必死で考える。
今私が居るのは、屋敷の二階──私の自室だ。
同じ階にお兄様とお母様の部屋があり、一階にはメイド達の部屋がある。声が聞こえているのはそこからだろう。
この部屋から逃げ出すには、扉の向こうの炎の廊下を抜け、階段を降り、エントランスから外へ脱出する方法があるけれど……それはあまり現実的ではない。
この部屋から一歩でも外に出れば、私はたちまち炎に身を焼かれてしまうだろう。
ならば、バルコニーからの脱出はどうだろうか。
書斎にある小説の中でも、窓やバルコニーから脱けだす為に、カーテンやシーツを結んで縄を作り、それを伝って外に逃げる方法が出て来る。
私は咄嗟に部屋を見回し、使えそうなものが無いか確かめた。
……やれなくは、ないだろう。
多少の怪我はするかもしれない。けれど、このまま廊下へ飛び出すよりはマシな方だろう。
事実、扉を出るかバルコニーから出るか、私が選べるのはこの二択だけだ。私の命を第一に考えるのであれば、バルコニーからの脱出の方が成功率は高いはずだ。
「でもそれだと、私以外は助からない……!」
私がうだうだと悩んでいる間に、先程まで聞こえていたはずの悲鳴はとうに止んでいた。
この屋敷のメイド達は──私の髪を梳くのが好きだと言ってくれた、メイドのメロアは、もう……?
……いいえ、そんな弱気でディアドコス家の令嬢が務まるものですか。
何か、何かきっと良い方法があるはず。
よく思い出すのよ、イーリス。この状況を打破出来る、切り札は──!
ふと私の目に飛び込んできたのは、ドレッサーに置かれたポーチだった。
私はその中から一枚の木の板──エドナさんから届いた、エルフのお守りを取り出した。
私の読んだ本の記述が確かなら、エルフ族のお守りの加護には災難から身を守るご利益があったはずだ。屋敷を包むこの炎は、私にとって災難以外の何物でもない。
「これに、賭けるしか……」
でなければ、私は大切なものを失ってしまう。
私は六角形のお守りを左手に握り締め、一旦閉じておいたドアをもう一度開け放った。
炎はまだ、激しく揺らめいている。既に天井にまで燃え広がっていた。
「……でも、行くしか……ない!」
私は自らを奮い立たせ、灼熱の中へと飛び込んだ。