生そば
エッセイとして書き始めた本作ですが、表現しづらかったので小説の形に書き直しました。楽しんでいただければ幸いです。因みに内容は、10年ほど前の実体験がベースとなっております。
ある夏の夕方、俺は駅のホームで電車が到着するのを待っていた。すると、後方から不意に
「なまそばくださーい。」
という声が聞こえてきた。振り向いてみると、中学生と思しき女の子が一人、立ち食いそば屋の前に立っていた。店の横には’生そば’と書かれた旗が立っている。
「あいよ。」
店のおばちゃんが応え、蕎麦をつくり始めた。
’なまそば’だと?あれは’きそば’と読むべきだろう。辞書を引けば、’きそば’と読むのが正しいと載っているはずである。あれくらいの年代だと、まだ’きそば’と読むのが正しいとは知らないのか?
自分の場合はどうだったか。生糸は’きいと’と読んでいた。生そばを’きそば’と読んでいたか?思い出せない...。
待てよ、もしかすると、ちゃんとした読み方を知った上で、彼女は敢えて’なまそば’と言ったのかも知れない。
いや、それは無いだろう。それの何処にメリットがあると言うのだ?
そんな事を考えているうちに、蕎麦が出来上がったようである。
「はい、お待ち。」
「ありがとうございますー。」
そう言って、彼女は蕎麦を食べ始めた。とても美味しそうに。
この俺の苦悩も知らず、なんて憎らしい娘だろう。いや、彼女に罪は無い。俺が勝手に悩んでいるだけの話である。
それにしても、なぜ、あのおばちゃんは教えてあげないのだ?注文を受けた時に「あいよ、きそば一丁ね。」と、さりげなく一言言えば良いだけの話ではないか。なぜそうしない?あれか、これが大人の対応という奴か?見て見ぬふりをするのが良いという事か?
俺の苦悩は続く。
正しい読み方を教えるのは、大人の義務だろう。今教えないと、後であの子が恥をかく羽目になる。見れば、純真無垢な感じの子ではないか。ここはさりげなく、通りすがりを装って、「お嬢さん、これは’きそば’と読むんだよ。」と言ってあげようか?
待て、その時、この子はどんな反応をするのだろう。「何コイツ?」みたいな感じか?いや、そんなスレた感じの子ではない。「あ、そうなんですか。教えていただき、ありがとうございます。」という反応だろうか?いやいや、そうはならないだろう。きっと、「え?」と絶句してから、顔を真っ赤にして両手で覆うに違いない。食事を楽しんでいる時に、そんな思いをさせるのは野暮の極みである。
このいたいけな乙女のハートを傷つけずに正しい読み方を教える方法は何かないものだろうか。紙に書いて渡すか?いや、傍から見れば、それは十分不審者だから。英語でこう言ってみようか?「Hey, girl. It's not namasoba, but kisoba.」と。いやいや、余計怪しいだろう。ああ、俺はどうしたら良い?
もういっそ、’なまそば’でいいじゃんか。生肉を’きにく’と読むわけで無し、生物を’きもの’とか’きぶつ’とか読むわけでも無し...。それに今俺が言う必要は無いだろう。自分が受け持っている生徒でもあるまいし。いずれどこかで正しい読み方を知る時が来るだろう。それで良いではないか。
そうこうしているうちに、彼女はすっかり蕎麦を食べ終え、
「ごちそうさまでしたー。」
と、飽くまで明るく、綺麗な声を残して去って行った。
俺は独り、自問自答していた。これで良かったのか?うん、多分、良かったのだ...。
やがて列車が滑り込み、規定の位置に停車した。すっかり憔悴しきった俺は、フラフラと乗り込み、座席にどうと座りこんだ。
「あの子、真っすぐに育ってくれるといいなぁ。」
そんな想いを胸に、列車は駅を後にするのだった。
小説を書くのは初めてでしたので、文の構成等、我ながら読みにくいなぁと思いつつ、取り敢えず投稿してみます(何か良い知恵を授かりますれば、再構成させていただきます)。最後の一文、主語と述語が対応してないという自覚はあるのですが、上手い言い回しが思い浮かばなかったのでそのままですm(__)m