06.戻ったディルクと彼女の死
夜が更けてもディルクは戻ってこなかった。
リーゼは一睡もせずに夜明けを迎える。それでもディルクは現れない。
リーゼは名前以外ディルクのことを何も知らないことに気付いてしまった。あれほど聞かされた愛しい女性の名前も知らされていない。ただ彼女とだけ語っていた。
大きな手の温もりも、優しい笑顔もこの三日間確かにリーゼと共にあったのに、リーゼは彼のことを何も知らない。
たまたま押し付けられただけの女を信用するわけはないと頭では理解できていても、捨てられてしまったのではないかと心が震えている。
リーゼはやせ細った体を自ら抱きしめながら、ただディルクの帰りを待ち続けた。
日がすっかり高くなった頃、ディルクが戻ってきた。
「お帰りなさい」
笑顔で迎えるリーゼ。
「ごめん、リーナ。一人にして欲しい」
ディルクの目が赤いことに気づいたリーゼは、彼を引き止めることができなかった。『彼女』の姿が見えないことに安堵した自分に嫌悪しながら、自身のベッドルームへ消えていくディルクの背中を見送った。
ディルクは彼女に振られたのだとリーゼは軽く考えていた。とにかく彼が無事帰ってきてくれたことが嬉しい。
リーゼは体力を取り戻さなければと思い、運ばれてきていた朝食を口にした。
昼が過ぎてもディルクは部屋から出てこなかった。既に昼食が運ばれて来ていた。
「ディルク、お昼の時間だけど」
ベッドルームのドアを軽く叩きながらリーゼが声をかける。早く彼の顔を見たいと思った。
「済まない。一人で食べてくれ。僕はそんな気分ではない」
そう返事があったきり、何度リーゼが呼びかけても答えはなかった。
一人で食べる昼食は寒々しい。
小さなテーブルでディルクと向かい合って、食べるだけで彼に褒めてもらえる食事がどれほど楽しかったか、今更ながらリーゼの身にしみる。
それでもリーゼは食べる努力をした。牢番と約束したから。そして、生きたかったはずなのに餓死してしまった身代わりの女性のために。
夕飯が運ばれてきてもディルクは部屋から出てこなかった。これでは体を壊してしまうと心配したリーゼは、彼に食べるよう説得することにした。
「ディルク、夕飯にしましょう」
「僕はいらない。処分してもらってくれ」
弱々しい声がベッドルームの中から聞こえてくる。
「ディルク、想う女性に振られて辛い気持ちはわかるわ。でも、食事だけはちゃんととって。だって、望んでも食べることができない人もいるのよ。その人たちのためにも食べ物だけは粗末にしないでほしいの」
それは自らの罪の懺悔だった。婚約破棄を受けてこの国には必要のない存在になったと、リーゼは生きることを放棄した。しかし、自ら死を選ぶこともできず、この国には餓死するほど貧しい人がいると知っていたにも拘らず食べることを拒否していた。大半の料理が残された食器を見て悲しい顔をする牢番のことも無視していた。
ベッドルームのドアがゆっくりと開く。出てきたディルクの表情には昨日までの明るい雰囲気はどこにもなかった。
「君に食べ物を処分してくれと頼むなんて、ひどく残酷なことだったよね。ごめん。でも、僕は振られたわけではない。彼女は既に死んでいた。僕は間に合わなかったんだ」
悲痛な声でそう言うと、ディルクは俯いてしまった。
リーゼは驚いてしまった。四日前に出会った時、ディルクは彼女の救出に向かおうとしていた。あのまま救出に向かったら間に合ったかもしれない。
「私のせいなの? 私の面倒を見ていたから、救出が遅れてしまったの?」
そうだとディルクに非難されるのはとても怖かったが、リーゼは確かめずにはいられない。
「違う。リーナのせいではない。あの夜でも間に合わなかった。僕が悪いんだ。母を説得していてこの国に来るのが遅くなった。彼女が囚われたと知ってすぐに来ていれば。いいや、あの時に無理矢理でもあの男から奪っていれば、こんなことにならなかった」
血が出るほどに手を握りしめながら呻くようにディルクは言った。今まで見たこともないような怒りの表情にリーゼは驚く。
「無理矢理に女性を奪ったりしたら、優しいディルクのことだもの。絶対後悔したわ」
慰めの言葉さえ見つからず、リーゼはそう言うことしかできなかった。
「あの夜、僕は彼女を想って月を見上げていた。そこで君と出会った。これは運命かもしれない」
ディルクは彼女が囚われているという牢獄を調べだし、昨夜訪れてみると無人になっていた。
不審に思い街で調査すると、驚くべき事実が明らかになった。彼女は四日前に餓死していて既に埋葬されていたのだ。あの夜、リーナに出会わなければ、ディルクは生きている彼女に会えたかもしれないが、餓死寸前ならば助けるのは難しいだろうと思う。
美しかった彼女が餓死寸前の体をさらすことを拒否して、リーナに会わせたのかもしれないとディルクは考えることにした。
「とにかく、夕食は食べることにする」
ディルクがそう言ったので、リーゼは安心した。
ディルクの食は進まなかったが、食の細くなっていたリーゼもゆっくりと食べるので、長時間食事を共にできて嬉しいリーゼだった。そして、彼女が死んだのにこんなことで喜ぶ自分を嫌悪していた。