46.終章
「ねぇ、リーナ、いきなり殴られたりしないかな?」
サンティニ公爵邸の裏門近くで馬を降りたディルクは、リーナを抱き上げて下ろしながらそう訊いた。
「大丈夫だから。お父様はそんなことはしないわよ」
リーナは微笑みながらディルクの手を引っ張り、ディルクを裏門へと連れて行こうとする。
「だって、娘がいきなり夫を連れてきたら、僕ならその男を一発殴るけど」
「そ、それは、相手の方が気の毒かも」
ディルクの筋肉が発達した大柄な体を見て、リーナは未来の娘の夫が少し可哀想になった。
「でも、僕はリーナとの結婚を認めてもらうために殴られる覚悟はあるよ」
武人の家に育ったディルクの思考は、やはりどこかずれている。
「だから、お父様は殴らないと思うわ。娘の恩人を殴ったりしたら、私から縁を切るわよ」
リーナはためらっているディルクの手を強く引いた。
「お嬢様? リーゼお嬢様ではないですか!」
使用人や商人用の裏門はかなり狭く、騎乗したまま通過できないようになっていた。そのため、護衛はたった一人しかいない。その護衛が声を張り上げる。
リーナは指を口に当てて、若い護衛を黙らせる。それでも声を聞きつけて、複数の護衛や庭師が集まってきた。
「サンティニ公爵にお会いしたいの。非公式だけど、取次をお願いできるかしら」
「只今、確認して参ります」
リーナの願いを聞き、若い護衛は転がるようにして屋敷に入っていく。
「皆さんお元気でしたか?」
人が増え始めた裏門に入り、リーナは使用人たちに訊いた。
「はい。お嬢様も元気そうで……」
長年サンティニ公爵家の庭を守ってきた庭師は泣きそうになり、言葉を続けられなかった。
ディルクから手綱を受け取った馬丁も、泣きそうになりながら後に続いてきている。
「この方は私の命を救ってくれた恩人で、今は私の夫です」
「ディルクと言います。よろしくお願いします」
リーナに紹介されて、少し緊張気味に挨拶するディルク。そんな誠実そうな彼を使用人たちはすぐにお嬢様の夫と認めた。リーナが幸せそうにディルクを見つめていることも大きい。
「こちらこそ、お嬢様をよろしくお願いします」
使用人たちはこぞって頭を下げる。
「リーナは愛されていたんだな」
気高く美しい公爵家の令嬢は使用人たちにとても慕われていた。
使用人たちが自分を受け入れてくれたことが嬉しく、ディルクはとても機嫌が良い。
「当然です。お嬢様が囚われた時、暴動を起こそうと思ったぐらいです」
年長の護衛は笑いながら冗談のようにそう言ったが、当時はかなり本気だった。公爵本人から様々な問題があり、牢に入っている方がリーゼは安全だと諌められて、サンティニ家の護衛たちは牢獄襲撃を諦めていた。
まさか、リーゼが獄死してしまうとは思わず、護衛たちは主人の言葉を無視して救出に向かえば良かったと後悔していたところだ。そこに、元気なリーナが現れて、使用人たちは本当に喜んでいる。
サンティニ公爵との面会の許可はすぐに下り、リーナとディルクは彼の執務室に通される。
リーナが牢へ入れられる前より随分と痩せたサンティニ公爵は、リーナが部屋に入ると同時に立ち上がって、彼女を抱きしめた。
「本当に済まなかった。リリアンヌの父親と伯父である公爵が暗躍していると聞いて、牢の中の方が安全だと思ったのだ。陛下にも貴族女性用の牢を使用して貴族令嬢として遇すると確約をもらっていたのだが、あの馬鹿があんな酷いことをするとは思わなかった。許してくれ」
サンティニ公爵はリーゼが牢の中にいれば、第二王子も気が済み、それ以上悪評が立つこともなく、命を狙われることもないかと思っていた。
牢は騎士団管理なので油断していたこともある。まさか、騎士団副団長が王子の命令を実行させていたとは思わなかった。
「私は家のために捨てられたのだと思っていました」
父に捨てられたとの思いが、リーナの生きる気力を奪ったのは事実だった。
「そう思われても仕方がない。家名も領地も守りたかった。本当に済まなかった」
何度も謝るサンティニ公爵が、リーナにはとても小さくなってしまったように思えた。大柄なディルクの側にいるせいかもしれないと彼女は思う。
「私はブランデスで結婚したのよ」
リーナがディルクを指し示すと、ディルクは前に出て大げさなほどに頭を下げた。
「縁ありましてリーナの夫になりました、ディルク・ハルフォーフと申します。以後お見知りおきください」
上目遣いで恐る恐る無言のサンティニ公爵を見上げたディルクは、彼が微笑んでいるのを見て安心する。
「ハルフォーフ将軍閣下ですよね?」
「は、はい」
サンティニ公爵の問いに、また闘神や破壊神と言われるのかと身構えたディルクだったが、サンティニ公爵はそのまま頭を下げただけだった。
「騎士団長から閣下のことを伺っております。娘を助けていただいて、本当に感謝しています。私が言えた義理ではないのかもしれませんが、娘を幸せにしてやってください。よろしくお願いいたいします」
「こちらこそ、よろしくお願いたします」
サンティニ公爵とディルクは何度も頭を下げ合っていた。そんな二人をリーナは嬉しそうに見ている。
「リーゼとヴェルレ公爵との結婚は解消され、彼は神職に就き生涯独身を貫くことになった。愚かな彼の血が繋がることはない。幸い王太子は有能な方だし、副団長のせいで求心力を失っていた騎士団も、団長がまとめつつある。この国はきっと生まれ変わる。私はそう信じているよ」
リーゼが願った国民が幸せに生活できる国になるように、サンティニ公爵も努力していく所存である。平民から搾取し貴族の既得権を頑なに守ろうとした保守勢力は力を失いつつある今、彼の意見も通りやすいだろう。
「リーゼ、いや、今はリーナだな。ハルフォーフ将軍閣下と結婚して幸せか?」
リーナの顔を見れば幸せだとわかったが、サンティニ公爵はあえて訊いてみた。
「はい。とても幸せです」
笑顔で答えるリーナに、ディルクは破顔する。サンティニ公爵は満足げに頷いた。
共同墓地、今日はリーゼの月命日だった。アドリーヌはリーゼに墓の前で祈りを捧げていた。
リーゼが死ぬ原因となった第二王子は、生きて贖罪の道を選んだ。簡単に死ぬなんて許さないと責めたのはアドリーヌだ。
当初は国民福祉の施策を頑張っていたヴェルレ公爵だったが、いつしか怠けているとの噂が流れてきて、アドリーヌは後悔していた。そこに、ヴェルレ公爵はリーゼとの離婚後神官となり、貧困地区の教会で奉仕作業をするようになったと聞いて、アドリーヌはリーゼに報告に来ていた。
「アドリーヌさん、お久しぶりです」
そう声をかけられて振り返ったアドリーヌは、幽霊を見たような顔で呆然と立ち尽くす。
「リーゼ?」
「今はリーナと言うのよ。訳あってブランデスで結婚したの。こちらが夫のディルク・ハルフォーフなの」
幽霊でないと悟ったアドリーヌは嬉しそうに微笑んだ。
「リーナさん、幸せそうで良かった。やさしそうな旦那さまね。ハルフォーフって、ハルフォーフ将軍の縁者の方ですか? 凄いわ。ねぇ、リーナさん、ハルフォーフ将軍様に会ったことがあるの?」
「え、ええ、まぁ」
リーナは曖昧に答える。いつも会っているから嘘ではない。
「ねぇ、ねぇ、ハルフォーフ将軍様ってどんな方なの? 大きな岩でも一刀で斬ってしまうとか、太い鉄の棒を片手で曲げるとか、人を山より高く投げ飛ばすとか、本当のことなの?」
幼い弟がいるアドリーヌは、いつもハルフォーフ将軍の英雄譚を読み聞かせることをせがまれていて、その大げさな文面を覚えてしまっているほどだ。
「ふ、普通の人だと思うわ」
真っ赤になって俯いているディルクを、リーナはハルフォーフ将軍だとは紹介できなていた。
「リーナさん、今幸せ?」
「もちろん」
それだけは自信を持って答えることできるリーナだった。
「よう、良く来たな。適当に座ってくれ」
国に帰ったスランは小さな酒場の店主になっていた。名を憩亭という。酒に逃げなければ生きていけないほどに辛い思いをしている者を、少しでも癒やしたいとスランが開いた酒場だ。
「リーナ様はまだ果実ジュースだな。ディルクは蒸留酒で大丈夫か?」
「僕もジュースでお願いする。溺酔すると危険だから飲まないようにしているんだ」
ディルクは戦勝会で深酒をしてしまい、朝起きると会場が瓦礫になっていて、破壊神の二つ名が付け加えられたのは黒歴史だった。それ以来、酒は口にしていない。
「確かに、おまえに暴れられても困る。破壊神だかなら。ジュースにしておけ」
嫌そうに顔をしかめるディルクの前に、青碧の液体が並々と入ったグラスが置かれた。
「酒の後に飲むといいと言われている野菜ジュースだ。体にいいから飲んでみろ」
少し不味そうにしながらもグラスを空けたディルクは、リーナの前に置かれたリンゴのジュースを羨ましそうに見ていた。
「リーナ様、今幸せか?」
それはスランが一番知りたいことだった。
「とても幸せです。全部スランさんのお陰です」
輝くような笑顔を見せるリーナ。
「今日は新婚夫婦が来てくれたんだ。祝いに皆の分も只にするから、大いに飲んでくれ」
スランが客にそう言うと、小さな酒場には歓声が上がった。
いつもは辛さを忘れるために集まってくる客たちは、今夜だけは幸せな気分でリーナとディルクを祝福しながら酒を夜通し楽しんだ。




