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04.リーゼの覚悟

「一人でシャワーを使えるか?」

 この国は貧富の差が激しい。庶民の家には風呂やシャワーがなく、湯に浸した布で体を拭いて済ませんるのが普通だ。リーゼが収監されていた牢は貴族女性用に建てられたもので、一室しかないとはいえ、トイレもシャワーも完備されていて庶民の家よりはかなり豪華な作りであった。

 公爵令嬢時代は侍女に入浴の補助をしてもらっていたので、一人では着替えもままならなかったリーゼだが、牢では一人で全てこなさなければならなかったので、シャワーも着替えも一人でできるようになっていた。

「はい。使えます」

 リーゼの答えを聞いて、やはりいいところの娘なのだとディルクは感じた。それなのに父親が患っただけでやせ衰えるほどに困窮してしまうとは、この国の王は何をしているのだと憤っていた。

「宿の娘に寝衣を貸してもらったのでこれを着てくれ。体を洗ったらゆっくり休むといい」

 ディルクはリーゼを安心させるように微笑みながら寝衣を差し出した。



 シャワー室の手前には脱衣所を兼ねた洗面所があった。洗面台の上の壁に貼り付けられた鏡にリーゼの姿が映る。光輝くような美しいプラチナブロンドだった髪は、牢に入れられる前に肩のところで切られてしまった。今は艶も弾力も失われてまるで老婆の髪のように白くて細い。脂肪が全て落ちてしまった顔は頭蓋骨の形そのままのようだ。

『醜い』

 小さな声で呟いたその言葉は、リーゼ自身の胸を抉るようだった。

 そして、気付いてしまった。

 結婚はただの義務だと思っていたリーゼと違い、真っすぐに求婚相手への好意を口にするディルクが羨ましかったのだと。そして、そんなディルクに一途に想われている月の女神のように美しいという女性を妬ましく思っていることに。


 リーゼは知らぬ間に涙を流していた。初めて自分が哀れで悲しいと感じていた。

 そう思うと泣くことが止められない。

 婚約者に裏切られた時は、結婚という義務から逃れられた気がして安堵したぐらいだ。父に見放されても何も感じなかった。将来の公爵夫人として、貧しい人たちを少しでも救えることができればいいなほどの希望しか持っていなかったリーゼは、それを失った時に生きる意味をなくしていた。

 しかし、今はディルクのように恋がしたいと思う。愛し愛されたい。リーゼは初めて生きたいと強く願った。

 それなのになぜこれほど悲しい気持ちになるのかわからず、リーゼはただ泣き続けた。


「リーナ、何かあった?」

 軽く洗面所のドアを叩く音とともに、気遣わしそうなディルクの声がする。

「何でもないの。父を思い出していただけ」

 死んだことになっている父に内心で謝りながらそう答えた。

「ごめん、父を亡くしたばかりのリーナに、僕は浮かれて好きな女性の話ばかりして無神経だったね」

「いいえ、楽しい話を聞くことは気が紛れて良かったの。一人になったから気弱になっただけ」

「そうか。彼女の話なら僕はいくらでも語ることが出来るから覚悟しておいて」

 ディルクが安心したようにそう言ってドアから離れる気配がする。リーゼはまた心が痛んだが、ディルクの恋心が羨ましいからだと思っていた。



 それから三日間、ディルクはリーゼの側にいて甲斐甲斐しく世話を焼いた。

 徐々に固形物が多くなるスープは宿に頼んで作ってもらっている特別製。新しい服や身の回りのものも買い揃えてきた。

 ディルクの態度はとても紳士的で、老婆のようになってしまったリーゼを淑女のように扱い、エスコートするように手助けはするが必要以上の接触は避けていた。


「なぜ、こんなに優しくしてくれるのですか?」

 ディルクの柔らかい笑顔やさりげない優しさに惹かれていくことを、リーゼは気付かないようにしようとしたが、溢れる想いに蓋はできない。ディルクの笑顔を見るのさえも苦しく思えて、その訳を訊いてみた。

「彼女は女神のように心の美しい女性なんだ。だから、僕は彼女に見合うような行いをしようと思った。それに、囚われの身の彼女が衰弱していたら、しばらくここに留まらなくてはならない。その時、衰弱していたリーナがいれば目立たないし、リーナに彼女の世話をお願いできるかなと思って。ごめんね。打算的で」

 そう笑うディルク。

「私でもお役に立てることがあるのであればうれしい」

 リーゼは微笑返した。それは、本心からの言葉だった。ディルクが望むならば、どんなに辛くてもその女性の世話をしようと思っていた。



「今夜、決行する」

 その夜、リーゼがスープに浸して柔らかくしたパンを二個完食したのを見て、何気ないようにディルクがリーゼに伝えた。それを聞いてリーゼの顔が強張る。

「彼女はとても優しい人だから、リーナを放り出せなんて言わない。万が一そんなことになってもこの宿に君のことは頼んでいるから、心配しなくてもいいよ」

 ディルクはリーゼのやせ細った手を持って目の高さを合わせてそう言った。リーゼが捨て置かれることを恐れていると思い、不安を取り除こうとしたのだ。

「そんなことを気にしているのではありません。囚われの女性を一人で救出するなんて、とても危険なことではありませんか?」

 リーゼはこの優しい男性が傷つくのが怖かった。もし、帰ってこなかったら、そう思うと震えるぐらいの不安に苛まれる。

「彼女のためなら危険なんてどうってことない。それに、僕はリーナが思っている以上に強いから大丈夫だ。しかし、もし朝になっても僕が戻らなければ、この宿の女将に相談して。世話をしてくれるはずだから」


 そう言うとディルクは颯爽と出ていった。初めて会った夜と同じように腰には剣を佩いている。

 その背中にいかないでと叫びたい思いをどうにか抑え込んだリーゼは、涙を堪えながら廊下の端の階段にディルクが消えるまで見送った。


 ディルクの姿が完全に消えて、部屋に戻ったリーゼは堰を切ったように泣き始めた。

 そして、ディルクが彼女を連れ帰らなければいいと思ってしまったことに驚愕する。ディルクは人を愛することで、彼女に見合うような人物になりたいと願っていたのに、自分は愛を知ることで汚れてしまったと自己嫌悪に陥る。


 今だけは思い切り泣いて、涙が枯れてしまったら、ディルクと彼の愛する人に笑顔で接しようとリーゼは誓う。それはディルクの願いが叶わなければいいと思ってしまった自分への罰だった。

 彼の笑顔が見知らぬ女性に向けられると想像するだけで心が張り裂けそうになるが、この痛みに耐えることがディルクの恩に報いる唯一の方法だとリーゼは覚悟している。

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