39.拷問のような惚気
「久しぶりですね。四ヶ月ぶりでしょうか?」
馬車の中のヴェルレ公爵は、馬上から睨んでいるディルクにそう言った。その凄まじい殺気に同行の近衛騎士とスランが身動きもできない中、ヴェルレ公爵は口をきけるのかとスランは驚いたが、一度も戦ったこともない彼はディルクの殺気を感じ取れないでいるだけだった。
ヴェルレ公爵とディルクが出会ったのは、公式には第二王子時代の一年以上前のことである。しかし、あの時襲撃してきたのは眼の前に立っている甲冑姿の男だと、ヴェルレ公爵は確信していた。
ディルクは睨むだけで返事をしない。
「馬車では時間がかりすぎる。馬に乗ってついてこい」
ディルクはリーナを死に追いやろうとしたヴェルレ公爵が許せない。しかし、リーナが死まで望んでいないと言ったので、王都まで連れて行くことにした。だが、一刻も早くリーナの所に帰りたいディルクは、時間のかかる馬車の旅を許すつもりはなかった。馬で早駆けするとディルクならば二日で駆け抜けるが、余裕を見て三日の行程を組んでいる。
ヴェルレ公爵は馬に乗れと言われて驚いたが、馬車を降りて素直に馬にまたがった。リーゼに会うまでは反抗するのは得策ではないと考えたからだ。
もともと護衛たちは騎馬の予定である。御者はこの町で待機を命じられた。
ディルクと同じく甲冑をまとった大国ブランデスの精鋭部隊に囲まれて、近衛騎士たちは萎縮していた。ハルフォーフ将軍がもしヴェルレ公爵の命を所望したのならば、とても守り切ることなど叶わない。ブランデスの兵がハルフォーフ将軍ただ一人であったとしても、たった五人で対抗するのは難しいと騎士たちは考えていた。
命を捨てる覚悟でブランデスまでやって来たスランは、もう怖いものなどないと思っていたが、ハルフォーフ将軍の威圧が凄すぎて落ち着かない。
『息を吸うのも辛いぐらいだ。これは絶対に違うな』
ディルクが撒き散らす殺気に当てられながら、スランは橋の上の男とハルフォーフ将軍が別人だとの思いを強めていた。
ヴェルレ公爵は馴れない騎乗でまわりを見る余裕もなく、射殺さんばかりに見つめているディルクの鋭い目に気が付いていない。
『鈍感なのが羨ましい』
前を見ながら一心に馬を操っているヴェルレ公爵を、半ば呆れながらスランは見ていた。
夕日が落ちる頃、宿泊予定の町に入る。ヴェルレ公爵は護衛たちと一緒に特別室へ押し込められた。
ディルクは普通の部屋に宿泊する。まとっていた甲冑を脱ぐと、青碧の虹彩以外は大柄な普通の騎士となる。
その夜は満月であった。ディルクが橋の上でリーゼと出会ってから四ヶ月が経ている。
宿の庭へ出たディルクは、空を見上げてリーナのことを想っていた。銀色に輝く月はリーナの髪を思い起こさせる。結婚まであと二ヶ月。ディルクは愛しいリーナを胸に抱く日を待ちわびていた。
「よう。また会ったな」
月を切なそうに見上げるディルクに声をかけたのは、若い近衛騎士たちと一緒の部屋にいるのが気詰まりになって庭に出てきたスランだった。
あの時と同じ満月だ。スランはこの大柄な男を見誤るわけはない。
「あの時の牢番か?」
ディルクはリーナが親切にしてもらったという牢番に微笑んだ。彼がいなければリーナと出会うことはできなかったからだ。
「そうだ」
スランは大きく頷く。
「あの時、僕に嘘を言ったよね。そのせいで、僕は弟たちに馬鹿にされたんだ」
スランに感謝はしているが、父を亡くした侍女だと嘘をつかれて素直に信じてしまったディルクは、一言抗議をしておきたかった。
スランは口角を上げる。こんな場所で出会ったので、ハルフォーフ将軍かもしれないと一瞬考えたスランだったが、目の前の頬を膨らませている大男からは闘気のかけらも感じない。
「悪かった。しかし、あの時は本当のことを言えなかったんだ。あいつは罪人にされていたから」
「知っているよ。あの男が何をしたかも聞いている」
ディルクは特別室の窓を見上げた。リーナとの旅でも泊まった部屋だ。
「あいつは元気なのか?」
スランにはそれが一番気がかりだった。
「今はリーナという名になった。もちろん元気だ。二ヶ月後には僕の妻になる」
スランは嬉しそうに微笑んだ。ハルフォーフ将軍の婚約者はリーゼだと思って、こんなところまで来たヴェルレ公爵の推察は外れていたが、全くの的外れというわけでもなかった。スランはヴェルレ公爵に同行して良かったと心から感じていた。
「リーナか。良い名だ」
「僕の妻になる女性を気安く呼ばないでもらいたい」
ディルクが再び頬を膨らませた。
「最初はあの男からの命令だったが、俺はリーナ自身から呼び捨ての許可を得ているからな」
ヴェルレ公爵はリーゼを牢に入れる時、辱めるためスランに呼び捨てするように命じた。辛そうに名を呼ぶスランに、呼び捨てすることを許可したのはリーゼ自身である。
「それは、捨てた名の時だろう。今は僕の婚約者だから」
「わかったよ。リーナ様と呼べばいいんだろう。そんなに嫉妬しなくても俺は父親みたいなものだからな」
ディルクは湧いて出るようにリーナの父親が出てくるなと顔をしかめる。
「お前はブランデスの騎士なのか?」
「そうだ。僕の名はディルク。ブランデスに剣を捧げている」
「俺はスラン。一応ヴェルレ公爵の護衛だ」
スランはこの優しそうな大男が、ブランデスの精鋭部隊に所属していることに驚くと共に、国に剣を捧げていると胸を張るディルクが羨ましかった。
スランは捧げるべき剣で、主を切ろうとしている。
「ディルクはリーナ様を愛しているのか?」
あの生きる気力を全て捨ててしまったようなリーゼが、本当に幸せになったのかスランは確認したい。
「当たり前だろう。あれほど美しくて気高く、優しい女性を好きにならないでいられる男はいるのか?」
「リーナ様はお前を愛しているのか?」
スランの問いに、ディルクは顔を赤くして頷いた。
「リーナは僕の手を握って、愛しているって言ってくれたんだ。とっても可愛かったんだよ。僕は嬉しくて嬉しくて」
「それは、良かったな」
「僕の母はちょっと怖い人なんだけど、リーナは上手く付き合ってくれているんだ。ちょっと癖のある弟たちともね。本当に素晴らしい女性なんだ」
ディルクのリーナ語りが止まらない。
「素顔のリーナはとても可愛いんだ。でも、化粧をすると冴え冴えしたような美貌になる。僕はどんなリーナに出会っても、跪いて愛を乞いたくなるんだ」
「あのね、リーナはね……」
ディルクはスランが聞いてくれるのが嬉しくて、小一時間はリーナのことを話し続けている。
「お前たちが幸せなのは良くわかったから、もう勘弁してくれないか。それより一度リーナ様に会わせてくれ。祝いを言いたい」
「もちろんだよ。王都に着いたら会わせるよ。リーナもきっと喜ぶと思うよ」
ディルクは頷いた。




