32.重なる誤解
ウェイランド伯爵が屋敷へ帰る途中、二十人ほどの騎士を率いたツェーザルに出会った。厳つい顔の彼は威厳に満ちており、態度も堂々としている。
ツェーザルが将軍を継いでいれば、威厳を保つために外国の要人の前では甲冑を装備していろと命じられるとこはなかったと、ウェイランド伯爵は柔和な顔の心優しいディルクを気の毒に思っていた。
「ウェイランド伯爵殿、大変なことがわかりました」
ウェイランド伯爵が乗った馬車を見つけてツェーザルが駆け寄って、密書のことを話した。
「気位の高い前局長が爵位の低かったルドルフを娘婿にしたのが疑問だったが、密書のことを知って脅したのかもしれない。しかし、それをアルノルトが見つけてしまったとしたら、命が危ない!」
今しがた後にしたシュニッツラー侯爵邸を振り返るウェイランド伯爵の顔は曇る。
「母上とマリオンがいますから大丈夫です。兄上も一緒ですから」
ツェーザルが少し心配そうな顔をしたのは、リーナのことで怒っていたディルクが破壊の限りを尽くしてしまうのではないかと不安だったからだが、ウェイランド伯爵は、少女のようなマリオン、強いと言っても女性の母、そして、温厚な青年のディルクでは心配なのだろうと考えた。
「私もここで待っていてよいか?」
ウェイランド伯爵も不安そうに後ろを振り返た。
「もちろんです」
ツェーザルが頷くと、ウェイランド伯爵は馬車を騎士達の後ろへ移動するように御者に命じた。
ツェーザルたちがしばらく待っていると、半裸のアルノルトを荷物のように肩に担いたディルクが悠然と歩いてきた。後には震えながらルドルフが続く。マリオンと母もルドルフを逃さないというように後を固めているが、怯えきっているルドルフに逃走の意思はなさそうだ。
「兄上、アルノルト殿を馬車に」
ツェーザルはウェイランド伯爵が乗った馬車を指さした。ディルクは大きく頷いて馬車を目指す。
「アルノルト!」
ツェーザルの声を聞いて馬車から顔を出したウェイランド伯爵は、ディルクに担がれているアルノルトを見て大変驚き、馬車を飛び降りでディルクに駆け寄った。
「兄さん、大丈夫だ。ディルクに助け出してもらったから。従姉殿とマリオンにも世話になった」
背中には無数の鞭の跡があり、流れ出た血が固まっていてかなり悲惨な様子だが、アルノルトの声は思った以上に元気そうなので、ウェイランド伯爵は安堵していた。
「母上、アルノルト殿を我が家へ連れて行ってください。医務官を向かわせますから。シュニッツラー侯爵殿は我々とご同行ください。兄上は屋敷の捜索をお願いします」
ツェーザルはディルクの怒りがまだ鎮まっていないと感じ、ルドルフは自分が騎士団へ連れて行くことにした。
シュニッツラー侯爵邸の捜索のために十人ほどの騎士を残し、ルドルフを乗せた馬を取り囲むようにしてツェーザル率いる騎士たちが去っていく。
ディルクはアルノルトを馬車に乗せ、残った騎士を率いて再びシュニッツラー侯爵邸へと向かった。
ウェイランド伯爵も馬車に乗り弱ったアルノルトを支えるように座る。
母とマリオンが馬車に乗り込むと、馬車は静かに動き出した。
ハルフォーフ邸の玄関で待っていたリーナは、馬車の音が聞こえたので外へ飛び出した。護衛として同行したはずのディルクの姿が見えないので、リーナは少し落胆していた。
母とマリオンがまず馬車を降り、ウェイランド伯爵に手を引かれたアルノルトが馬車から姿を見せた。
「アルノルトお義兄様?」
ウェイランド伯爵から借りた上着を着たアルノルトは、美しい義妹であるリーナを見て顔を綻ばせる。
「そうだよ。はじめまして、リーナ。危機一髪のところをディルクに助けてもらった。ディルクはちゃんと待てもできたんだ。後でディルクを褒めてやって」
アルノルトは助けてくれたディルクの恩に報いるため、リーゼに嫌われることを恐れてルドルフを切り刻むことを思いとどまったディルクこのことをやんわりと伝えておいた。
リーナは何を待ったのかわからなかったが、とりあえず義理の兄を助けてもらったので、帰ってきたらディルクに礼を言おうと考えた。
その日の夜遅くなってからディルクは屋敷に帰ってきた。
リーセは馬の音を聞きつけてバルコニーへ出た。侍女のアリーセは隣の部屋で寝ているはずだ。
リーナが見上げた月は明日には満月になる。
馬を馬丁に預けたディルクは屋敷に向かう途中で二階の客間のバルコニーを見上げ、恋しいリーナの姿を見つけた。もちろんディルクは壁を伝ってバルコニーへと登る。
「リーナ、逢いたかった」
ディルクが満面の笑みで近寄る。
「お帰りなさい。私も逢いたかった」
リーナも同じような笑みで迎えた。
大柄のディルクはリーナを傷付けないように細心の注意を払ってそっと抱きしめた。
月が照れたように雲に隠れてしまったが、二人の抱擁は続く。
「アルノルトお義兄様を助けてくれてありがとうございます。それに、お義兄様が待てができたってディルクのことを褒めていました」
リーナに礼を言われたことは嬉しいが、ちょっと納得がいかないディルクだった。
「僕はこんな時にリーナの口から他の男の名を聞きたくない」
少し拗ねたような声を出すディルク。大きな彼が拗ねている様子は少し可愛いとリーナは思う。
「だってお義兄様だから、ディルクとは違うわ。私が愛しているのはディルクだけだもの」
そう言ってディルクに胸に頭を預けるリーナが可愛くて、ディルクはリーナを抱く腕にほんの少し力を込めた。
「僕もリーナのことが大好きだよ」
「やっぱり、リーナお嬢様はディルクのことが好きなのだわ。でも、エックハルト様に恩があるからハルフォーフ将軍と結婚しようとしている。お可哀そうなリーナお嬢様」
月が再び姿を現し、抱擁する二人を照らし出す。その二人をアリーセは悲痛な思いで見つめていた。
「アルノルト様、ご相談したいことがあります」
翌日、アリーセはハルフォーフ邸に滞在しているアルノルトの部屋を訪ねた。
「アリーセ、久し振りだね。元気だったかい。僕でできることなら何でもするから言ってごらん」
鞭による傷はいくつか痕は残るがそれほど深くなく、昨日の治療で身を起こすことができるようになったアルノルトは、ベッドから起き上がって椅子に座った。
アリーセは立っていようと思ったが、アルノルトに椅子を勧められて向かいに座る。
「実はリーナお嬢様には恋人がいるのです。でも、ハルフォーフ将軍様との結婚を断れないようです。どうにかできないでしょうか?」
「何だって!」
アルノルトは頭を抱えた。昨日の馬車の中で従姉とマリオンから、ディルクとリーナのことを聞いていたからだ。
十八歳で戦場に行き、十九歳で将軍職を引き継ぎいだディルク。四年間ただひたすら戦いに明け暮れた彼は、戦争が終結した昨年遅い初恋を経験した。その相手がリーナだった。
少々馬鹿になってしまうほどリーナが大好きなディルク。一年間の想いが叶ってようやく結ばれるはずだった。しかし、リーナには恋人がいるという。
アルノルトは年の近い従甥のことが哀れすぎて、苦しそうに頭を振った。




