20.シュニッツラー侯爵領
王家直轄地を抜けるとシュニッツラー侯爵領に入る。一昨年に侯爵位を継いだのは前シュニッツラー侯爵の娘婿となったルドルフ。彼は子爵家の令息でエックハルトの部下でもあった。
「今宵はシュニッツラー侯爵邸に泊めて貰う予定だ。夕方には着くからもうしばらくの我慢だ」
エックハルトは疲れた様子のリーナを気遣いそう言った。往路はシュニッツラー侯爵邸に宿泊し、復路も宿泊させてもらえるように頼んでいた。貴族の屋敷なので町の宿屋よりは快適に過ごせるだろうとエックハルトは思う。
馬車の旅は快適なはずなのに、ディルクと一緒に馬の背に揺られながらの旅の方が疲れなかったとリーナは思う。
新しく養父母になる前ウェイランド伯爵夫妻は思った以上に優しくリーナに接しているが、夫妻の会話の相手をしているリーナは少し気疲れをしていたようだ。
ディルクの穏やかな顔を思い浮かべようと、リーナはしばらく目を閉じた。
日が暮れる前にシュニッツラー侯爵邸に着くと、前ウェイランド伯爵夫妻とリーナは屋敷の中に案内された。ディルクは護衛としてエドガーと共に使用人部屋へと通される。
まだディルクと婚約も交わしていないリーナは、彼と別々になることに反対できなかった。ディルクは護衛以上の接触を禁じられていたので、素直に使用人部屋へと向かう。
侯爵邸の使用人部屋は広くはないが清潔で、大柄なディルクでも足が出ることがないベッドが三台置かれていた。
ディルクは同行している御者とエドガーの三人で部屋を使うことになる。食事も使用人の食堂で振る舞われた。
戦場で長く過ごしたディルクは、使用人待遇を気にすることもなく、大きな体に見合う食欲を見せて周囲を呆れさせていた。
「リーナお嬢様、本当に綺麗だな」
エドガーは前ウェイランド伯爵夫妻の養女を迎えに行くと聞いていたが、老齢に差し掛かった夫妻の養女があれほど若く綺麗な女性だと思わなかったので驚いていた。
「リーナ様は姿が美しいだけではなく、心まで美しい女性なんだ。優しくて気高くて、本当に完璧だよ」
リーナのことを語るのは本当に楽しいらしく、ディルクの頬は緩んでいる。
エドガーは嬉しそうにリーナを褒め称えるディルクを悲痛な思いで見ていた。エドガーは温厚で正直なディルクが嫌いではない。リーナを褒めるのは本心からだろうと思う。だからこそ、辛い思いをする前に忠告しなければならないとエドガーは考えた。
「リーナお嬢様は伯爵家の養女となった。産まれがどうあれ、今の身分は貴族なんだ。いくら好きになってもお前には手が届かない高嶺の華だ。深みにはまる前に諦めろ」
「わかっている」
エドガーの忠告にそう答えたものの、深みには既にはまっているとディルクは思う。一年前には婚約者がいるからとリーゼを諦めて、リーゼを助けられなかった後悔からリーナのことも好きになってはいけないと自制していた。もうどんな事があっても諦めたりしないとディルクは胸に誓った。
王宮の予算を全て管理する財務局の局長を代々務めるシュニッツラー侯爵家の屋敷は、王都にあるハルフォーフ侯爵邸よりも更に立派な作りだった。広い食事室での晩餐に招待されたリーナは、ディルクの姿が見えないことに不安になる。彼女はエックハルトに訊いたが、彼はにこやかに笑い、
「気にするな」
そう言ったので、リーナはそれ以上何も訊けないでいた。
四十歳手前のルドルフは優秀さを買われて娘婿になった如才なさげな男であるが、目が鋭く探るように見つめてくるので、リーナはあまり好きにはなれないと感じていた。
しかし、エックハルトの息子である現ウェイランド伯爵の上司であるので、リーナはルドルフと気位の高そうなシュニッツラー侯爵婦人の機嫌を損なわないように、愛想笑いを浮かべながら食事をしている 母国でもそのような食事にはなれていた。
『そういえば、ハルフォーフ侯爵邸では本当に美味しく食事をいただいていた』
賑やかなハルフォーフ家の食事風景を思い出し、リーナは柔らかく笑った。その美しい笑顔をルドルフがじっと見つめていることにリーナは気が付かずにいた。
食事が終わり寝室に通されたリーナは、窓から月を見上げていた。ディルクと出会った時から早一ヶ月が過ぎていて、月は再び丸くなっていた。
月明かりで見た橋の上に佇むディルクは、大きな体なのに威圧感もなくとても優しそうに見えた。牢番も同じように感じたのだろうとリーナは思う。
リーナは丸く美しい銀色の満月にディルクと出会えたことを感謝していた。
ディルクもまた満月を見て、リーナとの出会いを思い出していた。
「月を見上げてため息をつくなんて、まるで乙女のようだそ。お前のような体のでかい奴がしてもな。明日は早く出発するからもう寝ろ」
窓を見上げるディルクに声をかけてエドガーはランプの火を消した。
シュニッツラー侯爵領はリーナの母国と同じぐらい広い。王都に一番近い場所に建つ屋敷から、ウェイランド伯爵領まで抜けるのには三日間を要する。町が適度な間隔で作られているので野宿の心配はないが、広大な岩場など警備の目が行き届かない場所が多く、盗賊や追い剥ぎなどが出没する危険な領地であった。
屋敷を後にして二日目、盗賊情報の多い峠に差し掛かり、エドガーは緊張していた。緩やかな上り道は曲がりくねっていて、突然襲われる心配があるからだ。
エドガーは嫌な予感をひしひしと感じていたが、ディルクは全く緊張していないように見える。
「ディルク、ここいら辺は危険だ。もう少し緊張感を持て」
エドガーが苛ついたように苦言を呈した。
「蹄の音が聞こえる。おそらく五騎。矢を使われると面倒だ。僕が先に言って何とかしておくから馬車をゆっくりに走らせて。エドガーは後ろを頼む」
御者とエドガーにそう言うと、穏やかな顔だったのが急に厳しくなったディルクが馬の腹を蹴りあっという間に去っていく。
蹄の音が聞こえなかったエドガーは呆然とディルクを見送っていた。
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二千十八年四月二十六日 鈴元 香奈 著