12.諜報員からの報告書
出発より五日目。
ディルクたちの乗った馬は国境の森を抜け、既にブランデス国に入っていた。ディルクの腕に囲われるようにして、リーゼは馬の前に横座りしている。ゆっくり進む馬上から風景を眺めながらリーゼはこの旅を楽しんでいた。
中で一日雨のため宿で過ごしたが、旅は予定通り順調に進んでいる。
「僕は男ばかりの四人兄弟の長男なんだ。すぐ下は二歳下の二十一歳、その次は五歳下の十八歳、十歳違いの末の弟は、母がどうしても女の子が欲しいと言って産んだんだけどやはり男だった。だから実子は諦めて僕たちの妻や娘に期待しているらしい」
妻となるリーゼに自分を知ってもらうため、ディルクは家族のことを話し出した。
「何を?」
ディルクの母が自分に何を期待しているのか、リーゼは少し不安になる。勇猛果敢な女性でカラタユートとの戦争にも参戦していたと聞いていた。剣など持ったことがないリーゼは戦うことを期待されてても答えることができないと思う。
「かわいいドレスを着せて可愛がりたいんだって。そのために僕に早く結婚しろって、酷いと思わないか? 僕にだって都合があるのに」
「そ、そうなの?」
思わぬ答えで動揺するリーゼ。
「嫌なら僕に言ってくれ。何とかするから」
ディルクは母親が苦手である。軍では厳しいと評判のディルクの父であったが、母よりはかなり優しいとディルクは感じていた。母親の訓練が厳しすぎて日常的に死を覚悟していたぐらいだ。そのおかげで最強の名に恥じない剣士にはなったディルクは、今戦えばもちろん母親よりは強い。しかし、幼少から死ぬ思いをしてきたディルクの母親への苦手意識は消えてはいない。
しかし、どれほど母親に恐怖を感じようともリーゼだけは守らなければならないとディルクは思っていた。
「かわいいドレスを着るぐらいなら大丈夫よ。私に似合うか心配だけど」
公爵令嬢時代は第二王子の婚約者ということもあり、きつい美人に見えるような化粧をして、ドレスも大人っぽい雰囲気のものを着ていた。王族の美しさは国の威信を増すからだ。
素顔のリーゼはもう少し柔らかい印象だった。少しふっくらとしてきた頬は赤く、整えていない眉は少し下がっていて、大きな目が印象的だ。
「リーナにはかわいいドレスが良く似合と思うよ」
「ありがとう」
ディルクは女性に慣れていないとリーゼは感じていた。無駄なお世辞は言わないのでその言葉に他意はなく、本心からの言葉だろうと思うと、リーゼは嬉しくて微笑んだ。
ディルクは一年前に見たリーゼの微笑みに心奪われた。そして、冴え渡る月にような美しさにも拘らず、子どもを気遣う優しさや、貧しい国民を救いたいので職業訓練校を作りたいという賢さに更に心惹かれていった。
一年間リーゼを思い続けたはずだった。
それなのに今はリーナの笑顔が眩しい。リーナの笑顔をリーゼと誤認してまうほど、リーゼの記憶が薄れてしまったのかとディルクは心痛めていた。
「ところで、お母様はディルクが想い人を連れ帰ると思っているのでしょう? 突然どこの馬の骨ともわからない私を妻にすると言って、許してもらえるのかしら」
ディルクは平民ではないと思っていたが、下級貴族ぐらいだと思っていた。宮廷に出入りするような高位貴族にしては女性に慣れていないと感じたからだ。下位貴族なら平民の女との結婚も可能だが、ハルフォーフ家は代々将軍職を継ぐ由緒ある侯爵家でもある。ディルクは大国の将軍であり侯爵なのだ。気軽に誰とでも結婚できるような立場ではない。
「僕の想い人の名は母に告げていない。彼女の身分をおおっぴらにはできないから偽名を名乗って貰う予定だった。僕が花嫁を連れ帰ったら母の叔父である前ウェイランド伯爵の養女となり、しばらく行儀見習をしてもらうことになる。その後結婚しよう」
愛しい人の『結婚しよう』の言葉をリーゼは涙をこらえて聞いていた。
偽りの結婚でも側にいることができて嬉しい。しかし、ディルクの心は他の女性のもの。リーゼは揺れる心を隠して微笑んだ。
「母上、大変です!」
ディルクの弟が帰宅すると、文書を手に母の執務室に走り込んできた。
「ツェーザル、落ち着きなさい。ディルクが留守の間はお前が将軍代理なのですよ」
ディルクの母親は見上げるような大男の息子を睨みながらそう言った。次男のツェーザルも母親が苦手なので思わず立ち止まる。
「しかし、これを読んでください。落ち着いている場合ではないのです」
それは各国に放っている諜報員からの報告書だった。
そこには、リーゼが第二王子に裏切られたことを苦にして、食事をとることを拒否し餓死してしまったこと、リーゼの罪とされていたのは子爵令嬢リリアンヌの自演であり、リーゼは無実であったこと、リリアンヌは孤島にある修道院に送られること、第二王子は臣籍降下して公爵となりリーゼと書類上の結婚をして、厚生担当大臣になり国民の福祉に力を入れようとしていることなどが書かれていた。
「そんな、ディルクは間に合わなかったの」
母親の顔が蒼白になる。
「兄上が彼の国で暴れた形跡はありません。失意のまま帰ってくることになります」
ツェーザルもまた顔色を無くす。
普段は温厚なディルクだが、怒ると非常に危険な人物になる。父の死後、青碧の鎧をまとい戦い続けるディルクのことを歴戦の戦士さえ恐れていた。母親も弟たちも例外ではない。
ディルクは知られていないと思っているが、ディルクが小国の公爵令嬢リーゼを思っているのは歴然だった。しかも、他の男の婚約者になっているということで、随分と拗らせていた。
「母上は約束の件をもう少し待ってください。今兄上を刺激するのはまずい」
「当たり前です。恐ろしくてあの子に女性を紹介するなんてことはできません。とりあえず、嵐が去るのを待ちましょう」
母と弟はディルクが怒りながら一人で戻ってくると信じて疑わなかった。