☆ 通学・朝休み
私の通う紙浦北中学校は、これと言った特徴のない公立中学校だ。港町・紙浦市の住宅街から少し内陸の方へ外れたところに、かれこれもう60年ほど前から建っているらしい。生徒や地元の人からは、なんのひねりもなく北中と呼ばれることが多い。総生徒数は900人ほど。その生徒たちのほとんどは地元の小学校である牧村小学校か弓良小学校を母校としている。牧村小は一応私の母校でもある。一応を付けたのは、私は小学5年生の時にこの町へ越してきたので、その小学校には2年間しか在籍しなかったためだ。
北中に通う生徒たちの4割ほどが徒歩で通学し、残りは自転車で通学している。全員が自転車通学でないのは北中の駐輪場の面積の問題だ。学校から半径1.5km以内に住む生徒には自転車通学の許可が下りない。
私は自転車通学組のうちのひとりだ。住宅街でもひときわ海の近くにある小さな2階建ての自宅は、北中から2km以上離れたところに建っている。
自転車通学の辛いところは、なんといっても雨の日にカッパを着用しなければならないところだ。朝の忙しい時間に着替えるのが面倒くさいし、荷物としてもかさばるため「念のために持っていこう」という判断も心理的に取りづらい。今日みたいな半端な雨の日はまさにそんな葛藤を強いられる日であった。
今朝、家を出る前に外に出て雨と雲の様子を確認した。この程度ならば今日はカッパはいらないだろう。
もちろん天気予報もチェックした。テレビの向こうのお天気お姉さんが、「この地方は、今日は一日中弱い雨が断続的に降り続けるでしょう」と伝えていた。「断続的に○○し続ける」という言い回しが個人的に面白かった。要は「降ったり止んだり」ということだろう。
私は通学時間中ずっと「なぜわざわざ、ひねったような言葉を使って何万もの人に今日の天気を伝えるのだろう」と考えていた。自転車を漕ぎながら15分ほども考えたのならば、一応の結論を用意しなければ何となく後味が悪い。そこで私は「大人というのはあえて難しい言葉を使いたがる生き物なのかもしれない」という仮説を持ってこの問いには蓋をする事にした。女子高校生が訳もなく言葉を縮めたがる習性も、きっとそれと同じ類だ。そうすることで彼ら・彼女らは社会から自身に与えられたそれぞれの役を無意識にロールプレイングしているのだろう。
校門をくぐると同時に自転車から降り、その余力を借りてでタタタッと数歩だけ走る。忌わしい事に校内での自転車に乗ることは禁じられているのだ。その後は決められた駐輪場の一画までそれを押して歩く。自転車に鍵をかけ、カゴから荷物を手に取って、昇降口まで歩いている時に「おや?」と思った。
昇降口の前には学ランとセーラー服に身を包んだ男女生徒が20人弱ほど通路の端に一列になって並んで立っていた。何をしているのだろうとやや不躾な視線を送ると、「おはようございまーす」と、言わされている感満載の気だるげな挨拶が飛んできた。ひとりが私に挨拶をすると、その隣の人物が私に挨拶し、するとまたその隣が、と言う具合に波状的に私にやかま……元気な声が投げかけられる。とすると彼らは生活委員の集まりなのだろう。たしか去年も同じような挨拶運動をしていたのを思い出した。早起きをしていつもより早く登校し、通りがかる人に対して無差別に声をかけることを強要されるとは気の毒なこと極まりない。彼らの挨拶に対し私はお辞儀だけを返すと、足の回転を速めて下駄箱へと向かった。大変な思いをしている生活委員の皆さんには悪いのだが、朝から大きな声を聞かされるのは、個人的にあまり好きではない。
ねずみ色の雲に覆われた空の下よりもまた一段と明りの薄い昇降口の隅には、下駄箱に隠れるようにしてゴミ箱が設置されている。それは先週末、私たち美化委員会が置いたものだ。私は登校途中に拾った空のペットボトルをそのゴミ箱に捨てた。500mlサイズのペットボトルで、ラベルには青い字で「Talking Rain」と書かれていた。それを捨てた拍子に、カランとむなしい音がゴミ箱の中で響いた。その音は雨降りの月曜日の朝にふさわしいような気がして、挨拶運動によって害された私の気分は少し回復した。私は誰にも聞こえないように「カラン」と小さく声に出した。
2年1組の教室のドアをがらりと開けると賑やかなクラスメイトの声が耳を突いた。多くの生徒や机でごちゃついた教室内を縫うようにして進み、中央列の後ろから2番目の自分の席まで何とかたどり着く。学校指定の黒い鞄を焦茶色の机の上に置き、椅子を引いて腰を下ろす。ほっと一息ついたところで世界が暗転した。
「だーれだ?」
後ろの席からいたずらっぽい声が聞こえる。
「朝から元気ね。学級委員さん」
私の視界を覆う小さな手をどかして振り返ると、おなじみの前下がりのショートボブが顔の動きに合わせてさらさらと揺れている。
彼女の名前は高岡彩。低い身長と、女子としては短めの髪のせいで、遠目にみると小学校高学年の男の子みたいに見える。私と同じ牧村小の出身だ。現在は私たちのクラスの学級委員を務めている。あらゆる面で優秀だがそれを驕ったそぶりは一切なく、朗らかな性格で誰からも愛されている。クラスで席替えがあればいつも彼女の隣の席を巡って争いが起こる、そんなような人物だ。
「シャロが朝からため息なんかついてるんだもの。もしかして恋でもしているの?」
シャロとは私のあだ名だ。このあだ名を私にくれたのは、目の前で花のように微笑んでいる彼女である。私が小学生の頃に冷やかしで呼ばれていた別のあだ名を彩が聞き間違えたことと、私の顔がシャーロットっぽいためにこのあだ名がついた。彩があまりに自信満々に私のことをそう呼ぶため、そのあだ名を私の本名であると勘違いしている生徒も少なからず存在しているようだ。
ちなみに私の本名はソーン・ホワイト・優。英国人の父と日本人の毋との間に生まれた所謂ハーフで、目鼻立ちは完全に英国系のそれである。そのため小さい時から目立ってしょうがなかった。中でも主張が激しかったのは髪色で、ゴールデンレトリバーみたいな色だと小学生の頃はよくからかいの的になったものだ。その環境のせいというのもあってか、私は今でも集団の中に身を置くことがなんとなく落ち着かない。当然、友達を作るというみんなにとっては当たり前のことが、私にとってはとんでもなく難しことに感じられた。そんな私にとって彩は、唯一友達と言える特別な存在だ。
もし彼女と同じクラスになれていなかったら、私の学校での口数は9割以上減っていたことだろう。そんな彼女の存在に感謝しつつ、私はため息の理由を彩に説いた。
「美化委員の仕事で、今週から通学路に落ちているゴミを毎朝1つ以上拾うことになっちゃって大変なんだよ」
ついさっき昇降口のゴミ箱に捨ててきた、変に示唆的な名前のペットボトルのことを思い出しながら私は不満を漏らした。
私の発言を受けて、彼女の口元はこれまでの微笑みと変わらないまま、目元だけが困ったような表情を作り出した。その顔で彩が言う。
「ご苦労様。でもそれなら美化委員にならなければよかったのに」
委員会が始動して早々、こんな面倒くさい仕事をさせられるとは思ってもみなかったのだ。
「なってもいい委員会リストから来年は外しとくかな」
「なってもいい委員会リスト?」
彩がオウム返しで、私に説明を求める。
「これだよ」
私は机の引き出しから1冊のノートを引っ張り出して、その中身を友人に見せた。私が開いたそのページには、委員会の名前が8つほど列挙されてあった。そのうちの3つの委員会の文字の上には×印が書かれている。
「これどうやって使うの?」
彩がそのページを見つめながら質問した。
「これまで小学校でも中学校でも、クラスの中で委員会とか係とか決めることになってたでしょ。基本的に生徒ひとりに何か1役やらせる感じで。それで私、今回は準備してきたんだ」
そう言う私の声は少し得意げだったかも知れない。
「それがこのノートってことね」
私は頷きながら、ノートを彩の手に渡した。
「去年は委員会決めで失敗しちゃってね」
そう言うと彩が不思議そうな顔をした。
「委員会決めの失敗って? 入りたい委員会に入れなかったとか?」
「半分正解かな」
どう話そうか少し考えてから、私は説明を始める。
「とにかく私は楽な委員会に入りたかったの。それで去年は保健委員に立候補したんだ。でもみんな考えることは同じだったみたい。私のほかにも2人、保健委員に立候補者がいたの。それで、その中から誰が保健委員になるかじゃんけんで決めなさいって先生に言われたんだけど、じゃんけんでうっかり勝っちゃったりしたら他の2人から恨みを買うことになるのかなと思うとそれも嫌だなと思っちゃって。それでじゃんけんをする前に保健委員を辞退することにしたんだ」
「保健委員の座を奪われたくらいで恨みをかったりするのかな」
彩が困った生徒を諭す先生のような作り笑いを浮かべている。彼女はたまにこういう表情を作る。
「恨みを買うって言うか、借りを作っちゃうって言うか」
私は他人に何かを説明するのがあまり好きではない。それは単純に、その行為が下手だからだ。言いたいことを伝えるために、いつも人並み以上の労力を要する。それでも思ってることの70%も伝わればいい方だ。
彩が納得したかどうかはわからないが、私は話を続ける。
「それに恨みっこなしの勝負なんて存在しないでしょ。どんな小さなことでも。それに中学に入学して間もないころだったから、それなりに他人に対して気を遣っていたの」
「なるほど。少しわかった気がする」
彩はそう言って私の拙い説明にも文句を言わず、微笑みながら聞いてくれる。こういう人ってあまりいない。大抵の人はわかったふりをして私との会話を早く終えようとする。
「それで、私が保健委員の辞退を申し出ているうちにほとんどの委員会は埋まっていってしまって、残った委員会の中のひとつに入ることになってしまったの」
「去年何委員会だったんだっけ?」
「……体育委員」
「あ、面倒くさいやつだ」
今度は、宝くじに外れたおじいちゃんに「しょうがないね」って笑いかけるみたいな表情を浮かべながら彩が言う。彩の魅力の一つは、このような豊かな表情の変化だと私は改めて思う。
「で、その失敗から私は学んだの。委員会決めの攻略法を」
倒置法を使ったのは狙ってではない。話すことが苦手な人による倒置法の利用頻度は極めて高い。
「それがこのノートってわけだ」
彼女の机に置かれたノートを軽く持ち上げながら彩が言った。
私は頷く。
「一番楽な委員会に入ってやろうって思ったから去年は失敗したの。体育委員や学級委員とかの、どうしても遠慮願いたいようなハードワークな委員会を除いて、まあ入ってもいいかなってレベルの委員会をこのノートの中に列挙するの」
そこで一度言葉を切り、彩の様子を窺う。
彩は右肘で頬杖をつき、私の目を覗き込むようにして話を聞いている。ここでは言葉を挟むつもりはないようだ。彼女の手元にあるノートに視線を落とし、私は説明を続ける。
「委員会決めはだいたい立候補制だよね。先生が『○○委員に入りたい人』って声をかけて、1つの委員会ごとに順番に決めていくやり方。だから、この委員会に入ろうかどうしようかと悩んでいるうちにどんどん人気な委員会は埋まっていっちゃう。優柔不断になってはいけないし、ほかの人と入りたい委員会が被ってしまってもまた面倒くさい。
そこでそのノートを使うんだ。『○○委員会に入りたい人』の声から2秒くらい待って、誰も手を上げなかった委員会のうち、『入ってもいい委員会リスト』と照合をとって、一致したら『はい』と言いながら手を挙げれば失敗は避けられる仕組み」
私はそこでまた間を置く。すると今度は彩が反応を示してくれた。ずっとひとりで喋っていると、だんだん不安になって来るので、その反応はありがたかった。
「シャロも凝ったことするね」
彩がそう言って微笑むと、私の口角もつられて3ミリくらい上がった。
「もう体育委員は懲り懲り」
本当にあれほど私に向かない委員会もない。体育も体育祭も私は嫌いだ。
「そういえばこのクラスでも飼育委員の座を巡ってじゃんけんをしていたね」
彩が思いついたようにそう言った。
言われて私も思い出す。
「確か男子の方はすぐに決まったんだけど、女子の2人は最後まで譲り合わなくて」
彩が続きを引き取った。
「それ以来、雰囲気が微妙」
私たちは同時に同じ方向へ首を回した。数人の女子の集団が教室後方に固まって立ち話をしている。そこには飼育委員を巡る争いに果敢にも身を投じた者のうちの1人、上原萌香の姿があった。彼女も私たちと同じ牧村小の出身だ。彩ほどではないが小柄で、彩には遠く及ばないが頭もいい。バスケットボール部に所属していて、その部に所属している人にありがちな明るい性格をしていた。髪は後ろで1つに束ねられていて、スポーティーな印象を見る者に与えている。一番のトレードマークはなんといっても吊り上がった目と眉だ。そのパーツは彼女の勝気な性格をよく表している。もう一つ加えて言うと、私は小学生の時に彼女のグループから嫌がらせを度々受けてきた。
彼女は飼育委員を巡るじゃんけんに敗れ、たしか体育委員となったはずだ。
「いじめには繋がらなければいいのだけれど」
彩が伏し目がちに、私にだけ聞こえるくらいの小さな声でそう呟いた。こういうことを本心で言っているところがやっぱり彩だと思う。
上原のグループがいない方の出入り口から女子がひとりが教室に入ってきた。マッチ棒のように細く、ふと目を離したすきに消えてしまいそうな体つきをしている。たしか名前は阿部菜穂子。飼育委員を巡る争いのもう一方の当事者だ。こちらは見事じゃんけんに勝利し、彼女の左隣の席の大津慎太郎と一緒に飼育委員を務めている。
阿部は私たちとは別の小学校の出身で、中学でも今年度から初めて同じクラスになった。なので彼女の事はまだほとんど知らないが、恥ずかしがり屋というか、引っ込み思案なタイプの人らしいと言う印象を漠然と持っている。いつもかけているピンク色のメガネが印象的で、どんな顔立ちだったかはあまり記憶に残っていない。さらに今日はマスクを着けているので、その顔も隠されている。確かいつもは私より早く教室についていた気がするが、今日は遅刻ギリギリで教室に入って来た。さらには見たところ、息を切らせているようだった。遅刻にならないよう、ここまで長い距離を走って来たのだろうか。
阿部は入口付近の自席に着くや否や、左隣に座っている大津に話しかけた。
「大津くん、今日――」
「くしゅん」
阿部が言い終わる前に、大津がくしゃみをした。
「阿部の近くに寄ると風邪うつされるよ」
大津がくしゃみをした途端に教室の後ろの方で固まっていた数人の女子グループのうちのひとりから声が発せられた。下品な笑いの混じったような声だ。その声音からして、声の主はおそらく上原だろう。阿部と大津の席は教室の一番前に位置しているので、教室後方にたむろしていた上原のレスポンスの高さは実に驚異的であった。
その声を受けて上原の方を向いた大津はニヤリと笑う。
「こわっ! 近寄るな」
彼はそう言いながら机を持ち上げて、阿部の席から少し離れた所にそれを置きなおした。
大津に何かを言いかけた阿部は今やうつむいて、再び大津に話しかけるそぶりはない。
朝の学活の開始を告げるチャイムが鳴った。教室の後ろの方で立ち話をしていた女子のグループも散り散りになって各々の席へ着く。クラス全員が着席してほどなく、担任の高山昴先生が教室に入ってきた。正確な年齢は知らないが、まだ30になっていないだろう若い男の先生だ。先生は阿部の前を通りかかり、彼女がうつむいているのを発見した。
「おい阿部、大丈夫か? 体調が悪いようだったら保健室にっくしゅん!」
先生の豪快なくしゃみでクラスの一部からは笑いが起こる。先生は決まりの悪そうに笑顔を浮かべている。自分のくしゃみが間抜けで笑われていると思っているのだろう。
私の席からでは阿部の表情は確認できない。彼女の後姿はうつむいた状態のまま微動だにしなかった。
高山先生は笑顔のまま阿部に向き直り、「ま、そういうことだ」と明るい調子で言い残すと、いつも通り朝の学活をスタートさせた。




