☆ 6時間目・国語(2年1組教室) 【0/45分】
2年1組では斎藤夏海先生による国語の授業が行われている。分野は古典で、現在は『枕草子』を読んでいる。斎藤先生は私の1年生の時のクラス担任の先生だ。年の頃は20代後半で、穏やかな雰囲気が男女問わず生徒から人気を集めている。教壇に立つ彼女の左手の薬指には光るものが見える。彼女が結婚したのは去年のことだった。小ぶりな宝石の乗ったその指輪は、今も先生の薬指の上で気持ちよく輝いていた。
斎藤先生の授業は好きだ。しかし今日はその授業を楽しむことが私には許されていない。いや、そうではない。私が国語の授業をまじめに受けないことを選択したのだ。帰りの会までに犯人を絞り込むためには、この6時間目の授業時間を使わない手はない。
真相へたどり着くための糸口が欲しい。まずは2人の上履きがなぜなくなったのかについて考える。
誰かが間違ってそれを履いて行ったとすれば、その間違えて履いて行った人の上履きが、盗まれた上履きの代わりに現場に残されているはずである。しかし上原、小川、そして彩の3名の証言では、盗まれた上履きに代わる誰かの上履きは、現場からは見つかっていないと言う。
やはり上原と小川の上履きは本人たちの言うように、誰かの悪意によって盗まれたのだろうか?
それにしてもなぜこの2人の上履きが消えたのだろう。
言い方は悪いが、被害者が阿部だとしたら話はわかりやすかった。1時間目の数学の時間中、彩は「いじめに発展する前に止めないと」と私に手紙を回してきたが、今朝から阿部に対してされていたそれは、阿部の捉えようによっては十分にいじめであると言える範疇にあった。それは、いつ阿部の上履きが隠されるようなことがあってもおかしくはない環境が出来上がっていたことを意味する。少なくとも上原や小川よりかは阿部の方が上履きが盗まれる心配があったと言っていい。しかし実際になくなったのは上原と小川の上履きが片方ずつ……。
そこで私は1つの可能性を思いついた。
本当は盗まれたのは阿部の上履きであり、阿部が盗まれた自分の上履きの代わりに上原ら2人の上履きを履いて行ったのではないか。
この場合、阿部の上履きが盗まれたのは、やはり悪質な嫌がらせによるものだ。彼女の上履きは授業開始前の昼休みの時間に盗まれた。それに阿部が気づいたのは、彼女が体育の授業を途中で抜け、保健室へ向かおうとした時である。しかし阿部は上原らのように被害にあったことを声高に叫ぶことはできなかった。それは彼女の性格によるものであり、また、クラス内での立場によるものだ。彼女はそれをいじめの主犯格である上原らのグループの犯行であると直感し、なくなった自分の上履きの代わりとして彼女らの上履きを履き、保健室へ行くことにした。
これの推論が的を射ているかを確認するのは簡単だ。この学校では上履きには必ず自分の名前を書く決まりがある。現在阿部が履いている上履きに書いてある名前を直接見て確認すればいいのだ。
しかし今は授業中。立ち歩いて阿部や他の生徒の上履きの名前を見て回ることはできない。授業中に取れる選択肢は極めて限られている。そこで私は古典的な手法に頼った。
A4のノートの未使用ページを1枚切り離し、それを3回折る。もっとかわいい折り方もあるのだろうが、私はその折り方を知らない。
私は阿部に手紙を回す。書面はこうだ。
「阿部さんへ
阿部さんが今履いている上履きの名前を確認してくれない?
もしかしたら他人のを間違えて履いちゃっていないかな?
シャロより」
これに対する阿部の返答は簡潔だった。
「自分のだよ」
私が回した手紙の余白にその一言が筆圧の薄い字で付け加えられ、私の手元へ返って来た。折りたたまれた手紙の表面の宛名は私の名前に書き換えられている。
彼女が嘘をついている可能性は低い。ここで嘘をついたとしても、授業後に足元を見られれば、そこにい書いてある名前が自分が嘘つきであると証明してしまうからだ。
それに、阿部からの返答を待っている間には先ほど自分が思いついた推論にいくつかのおかしな点があることに気が付いた。
まず1つ。これは彩からの話にあったが、上原と小川の上履きのサイズは違っているのだった。盗まれた上履きの代わりとして履くのだとしたら、どちらかの人物の上履きを1足履く方が自然だ。
2つ。こちらがより決定的に私の推論がおかしいと思わせる点だ。授業開始前の武道場の玄関はいつも大勢の生徒でごった返している。今日の私たちはほとんど授業が始まりかけた時間に武道場に着いたため玄関には上原や小川のグループが数人いただけだったが、裏を返せばそれは授業開始寸前まで玄関から人気がなくなることはないことを示している。さらにピーク時ともなれば武道場と教室のある校舎をつなぐ渡り廊下まで長蛇の列ができるほどだ。つまりそのような人の目がある中で、誰かの上履きをばれないように盗むことはとてもできそうにないと思われる。
それでも念のため、授業後に彼女の履いている上履きの名前を確認しようと思う。
この時私自身の上履きの名前も念のため確認しておいた。万が一私が彼女らの上履きを間違えて履いていてしまっていたとしたら、目も当てられない。
もちろん私はきちんと自分の上履きを履いていた。貴重な時間の無駄遣いをした。
今考えた推論はいったん放棄しよう。
上原と小川の上履きは、悪意ある犯人の手により隠されたと仮定する。
この場合は単純だ。動機は上原と小川に対する恨み(あるいは何かの仕返し)である可能性が高く、そうして考えると犯人はかなり絞られる。
最有力候補は、やはり阿部だろう。同じ上原・小川らのグループと敵対した者同士として、できれば疑いたくないのだが、考えれば考えるほど捜査線上に上がってきてしまう。
動機があり、アリバイはない。足りないのは証拠だけ。
再び、いや今日通算で数えるならば3枚目の手紙を阿部に出す。
「阿部さんへ
けがは大丈夫? あの後はまっすぐ保健室へ向かったの?
シャロより」
いきなり「あなたが犯人でしょ」とは言えない。まずは軽く探りを入れる。
返事はすぐに返って来た。例によって私の送った手紙に、短いセンテンスが薄い字で書き加えられている。
「ありがとう。大丈夫だよ
まっすぐ保健室行ったよ。寄り道したくなる場所もないし笑」
阿部が上原らの上履きを盗んだとしたならば、彼女は保健室に行くまでの間にそれを処分するはずである。まさか上履きを手に持ったまま保健室には入るまい。保健室に行く前にどこかに寄って上履きを処理したのか、あるいはそもそも保健室には行かなかったのかを確認したかったが、聞き方が少し悪かったかもしれない。
武道場から保健室までの道は校舎の1階部分でつながっている。ちなみに私たちが今いる2年1組の教室はコの字型をした北中校舎の縦線部の2階にあり、位置関係としては武道場と保健室の中間地点あたりになる。
そこで彼女の証言を証明できる人物をひとり思いついた。大津慎太郎だ。阿部が左手首にテーピングを巻いてもらっている間、大津も保健室にいたはずだ。
私は急いで大津に手紙を送る。
「大津へ
5時間目に保健室にいたでしょ?
その時に手首を治療しにきた生徒がひとりいたはずなんだけど...
その人が何時ごろに来たかって覚えてる?
シャロより」
3分後、大津から手紙が返ってくる。
「そんな人が来たなんて気が付かなかったよ
ずっとカーテン付きのベッドで横になってたから」
使えない。カーテン付きのベッドの中からでも音で分かりそうなものなのに。まさか寝ていたわけではあるまい。大津が武道場から保健室に向かった時間と阿部が怪我して保健室に向かうまでの時間差は15分から20分ほどだ。大津が先に保健室についてから先生の診療が始まる。それが終わり、大津がベッドに横たわるには5分ほどかかるだろう。つまり大津がベッドに入ってから10分~15分で阿部は保健室に到着したことになる。
今度は阿部に手紙を送る。
「阿部さんへ
保健室に入ってから6時間目が始まるまで、
阿部さんはずっとベッドで寝てたの?
シャロより」
阿部からの返事は今までで1番時間がかかった。
返事の手紙を待つ間、私はこの授業時間中に手紙を回しすぎているのではないかと不安に思ってきた。仮にそれが先生に見つかり、咎められるようなことがあった場合には、クラスメイトから情報収集する手だてが失われるだけではなく、手紙の内容が外部に流出してしまう危機にもつながりかねない。そうなってしまっては、私はかなり苦しい立場に立たされることになるだろう。そのことに関しては、この授業を進めているのが斎藤先生であったことを神様に感謝するべきかもしれない。
斎藤先生はすこし抜けているところがあるため、私たちが手紙を回していることに気が付かない可能性が高い。それに、たとえそれを見つけたとしても注意こそすれど、手紙の中身を読むことまではきっとしない。場合によっては注意すらしないかもしれない。そう思ってふと教壇の上に立つ彼女の方へ目を向けると、先生は私に微笑み返してくれた。その微笑みは、私たちの年代の少女が作ることができないような慈愛に満ちた特別な微笑み方だった。先生は私が手紙を回していることをすでに承知していた。その微笑みはシンプルかつ効果的に私にメッセージを送った。
気が付かないことが多いけれど、私はいつも誰かの優しさに支えられている。私が感謝すべきなのは神様よりもその温かい人たちだった。
私の前の席の人が、前を向いたまま私に手紙を回してくれた。私はそれを無言で受け取った。
「そうだよ」
5分以上待って、返ってきたのは4文字だけだった。
いつもは早く授業時間が過ぎ去ってしまうことを望む私だが、今ばかりは真逆のことを念じていた。時間が惜しくてすぐに次の手紙を書く。
「阿部さんへ
そうなんだ。通りで6時間目の授業開始ギリギリまで教室にいなかったわけだ。
もしかしたら隣のベッドでは大津が寝てたかもね。
教室でも席がお隣で、保健室でも隣にいたとしたらなんか面白いね
シャロより」
今度の返信は2分以内に来た。
「大津は保健室にはいなかったと思うけど」
大津はずっとベッドに入っていたので気が付かなかったのだろうか? しかしベッドに誰かが入っていたとしたら、なぜそれが大津ではないとカーテンの向こうの阿部に判断ができたのだろう。手紙の表に「阿部さんへ」と書き、本日幾度目かの手紙を送った。
「どうしてそう思うの?」
それから5分待ったが返事は来なかった。阿部に無事手紙が渡ったところは見届けたが、阿部はそれを読んだ後、返事の手紙を書くそぶりは見られない。
私は混乱した。ポケットの中で絡まったイヤホンのコードのように、2人から得た情報が頭の中でこんがらがっていた。2人の手紙の内容がすべて真実だとすると話の筋が通らなくなってしまう。筋の通っていない情報からでは筋の通った結論には至れない。阿部か大津、おそらくどちらかが嘘をついている。真実を知る方法として、手紙でいちいち本人に確認するのでは埒が明かなくなってきた。何より時間が惜しい。
私は手を挙げる。
「すみません。頭が痛いので保健室へ行ってきます」
斎藤先生は頷いて私を送り出した。「いってらっしゃい」と聞こえてきそうだった。




