☆ 昼休み
4時間目の授業の後には給食があり、給食後には20分間の昼休みがある。
その時間をどのように過ごすかは個人の自由だ。趣味の合う者同士で雑談に花を咲かせるも、昨晩やり忘れた宿題を片付けるも、ノートの余ったページに小洒落たイラストを描くも、体力が有り余っている人同士で腕相撲に興じるも、時間の使い方は人それぞれで良い。
私はと言うと、いつもなら自席で彩とおしゃべりをするのが習慣となっている。しかし今、私は自分の教室を離れ、ひとり図書室へと向かっていた。
音楽の授業の後から、2人の間に張り詰めたような空気が漂っている。喧嘩をして、お互いを傷つけあったわけではない。私が普通に話しかければ、きっと彩も普段通りに接してくれるだろう。そう思っているということは、やはり自分に原因があると自覚はしているみたいだった。
だが私は給食の時間もうまく彼女に声をかけることができなかった。彼女の方をちろちろと見ては、目が合いそうになると、不意に自分の手元のトレイに置かれた給食へ視線を外したり、他の生徒の方に顔を向けたりしてしまう。
どんな気の利かないことでもいいから何か彼女に話しかければよかった。「給食に出てくるとうもろこしって食べづらいよね」でも「今日は大津、給食おかわりしないみたいだね」でも、今になってみればいくらでも話しかけるのに適当なセリフは見つかった。
早くきっかけを作らないと、どんどん話しかけにくくなってしまう。頭ではそうわかっているのに、今も私の両足は彩を避けるように図書室へと私の体を運ばせている。
書架から適当な文庫本を1冊見繕い、8人掛けの大きなテーブルのうちの1席に腰を掛ける。図書室内は閑散としていて、今私が座っている大きなテーブルも私の独り占め状態である。
思えば彩に出会う前の私は、昼休みには毎日こうして図書室に足を運んでは色々な本を読んだものだった。今から3年以上も昔のことだ。ひとりで本に向き合うことは私のこころを落ち着かせることができる貴重な時間だった。
しかし今はなぜか、ここに座って本を読むのが何となく居心地が悪いように感じられた。そのため本の世界へ入っていくことができず、さっきから同じ行を何度も読み返している。ページを繰るはずの左手は一向に動かされることがないまま、時間だけが無為に過ぎて行く。壁に掛けられた時計を見ると、すでに昼休み終了時刻10分前を切っていた。
ぱたんと本を閉じる。ため息。
5時間目は体育だ。そろそろ教室に戻ってジャージに着替えよう。
教室に戻ると、彩は大津と何やら話し込んでいた。大津は学ランを着たままで自席に猫背で座っている。彩はすでにジャージに着替え、大津の机の前に立っている。彩の体は私の方を向いていたが、まだ私が教室に戻ったことに気が付いていないようだ。
私は自席でジャージに着替えながら2人の会話に耳を傾ける。着替えるとは言っても制服の下にはすでに半そで・短パンの体操着を家から着用して来ている。制服を脱いだ後、長袖・長ズボンのジャージを着ればそれで着替え完了だ。暦の上では春とはいえ、まだまだ肌寒い日が続いている。私のクラスでは、ジャージを着ずに、体操着だけで体育に臨む勇敢な生徒の姿は未だ確認できていなかった。
「わかった。先生には私から伝えておくね」
彩の声だった。
「本当は三田とかに伝えようと思ってたんだけど、気が付いたらみんな教室からいなくなっちゃってて」
そう言う大津の髪は、不自然に一部が盛り上がっていた。まさか昼休み中にトイレの鑑の前でワックスを髪につけていたわけではあるまい。この位置からでは確認できないが、きっと彼の額には赤い痕があることだろう。
また、彼の声はどこか歯切れが悪く、ぼそぼそとしていた。おまけに彼は私に背中を向けた状態だったため、その声を拾うのは難しかった。それでも何とか私が彼の言葉を聞き取れたのは、教室にいる生徒の数が少なく、教室内の静謐が保たれていたお陰に他ならない。
中学2年の男子としては、なにか連絡事項を女子に頼むというのがなんとなく気まずかったのだろう、と彼の口ぶりから私は想像した。
「いいのいいの。別に三田くんじゃないと遅刻の連絡しちゃいけないなんて決まりはないんだし」
そこで彩が私の方に気が付いた。「じゃあ」と言って大津と別れ、私の方に駆け寄ってくる。
「どこに行ってたの?」
「ちょっとお腹が痛くてね」
彼女の目は見ずに、長袖のジャージのファスナーを閉めながら私が答える。
「じゃあ体育遅刻する?」
「もうジャージに着替えちゃったよ。大津は遅れてくるんだね」
「聞いてたの? さすがストーカーさん」
私はそこでようやく彼女の小さな顔を視界に収めることができた。彼女はいつものようにいたずらっぽい微笑みを浮かべていた。少し時間が空いたからだろうか、昼休み前までの緊張感は少し弛緩されたようだ。その微笑みを見た瞬間に、私は安堵のため息をつきたいような気分になった。
「彩の声が大きいだけだよ」
ほっとした勢いで、私はつい軽口を叩く。その言葉を口にしながら、これでは流石に冷たすぎるなと自分でも思ったので、慌ててセリフを追加する。
「教室も静かだったし」
辺りを見渡すと、教室には私と彩、大津の3人しかいなくなっていた。そろそろ移動しないと危ない時間帯だ。
「私たちもそろそろ行こう。もう授業に遅刻するのはごめんだよ」
彩は変わらぬ笑顔でかすかに頷きながら「そうだね」と同意した。
彼女はそこで私から顔を背けると、机に突っ伏した状態の大津に話しかける。
「じゃあ私たち行くけど、あんまり体調悪かったらちゃんと保健室に行きなね」
大津は右手を重そうに上げることで、無言のまま了解の返事をした。
そうして私と彩は今にも死にそうな彼を教室に置き去りにし、体育の授業が行われる武道場へと向かった。
武道場の場所はコの字型をした北中校舎の上の横棒の左先にあたる。つまりは北中校舎の最果てだ。
教室を出てすぐ、隣の2組の教室前を通り過ぎる。2組にはひとりの生徒の姿もなかった。すでに全員移動済みのようだ。それぞれの机の上には制服がたたまれ、あるいは雑然と置かれている。
この学校では体育の授業は2クラス合同で行われることになっている。私たちの1組は隣の2組と合同だ。武道の授業が行われている今もその例には漏れない。あの狭い武道場に2クラス、総勢80名弱を収容できるのだろうかと最初は不安に思ったものだが、武道場は2棟あるため、なんとかその人数を収容する事ができたのだった。細かく言えばその2棟のうちの1棟を剣道場、もう1棟を柔道場と呼ぶのだが、外部とつながる出入り口は剣道場にしかないため2棟をまとめて武道場と呼ぶことが多い。
剣道場にあるその出入り口は2つある。1つは校庭と繋がる表口。もう1つが教室のある校舎と渡り廊下でアクセスする裏口である。授業で武道場を使うときは、生徒たちは決まって裏口を通る。裏口から入ったほうが近いのもあるが、より大きな理由は表口には鍵がかけられていて通れないためだ。
それは我々生徒にとっては、あまり好ましいこととは言えない。前述の通り、この校舎の構造上、柔道場へ行くにしても手前の剣道場を必ず通過しなくてはならない。加えて実質の出入り口は裏口1つであるため、授業の開始と終了の時にはたいへんな人混みが発生するのだ。
この建築物の欠陥はそれだけではない。狭く短い渡り廊下を抜けて剣道場の中へ入ることができたとしても、我々生徒の前にはもう1つの困難が待ち構えている。剣道場の裏口から入った生徒は表口の方へ回り、そこにある下駄箱に上履きを入れなくてはならない。しかし、下駄箱は50足分ほどしか収納スペースがないのだ。そのため、入りきらない分の上履きは剣道場入口前の床の上に並べておくことになる。今日のように時間ギリギリに到着すると、それはもう確定的だ。
予想通りの光景を前にしながら、それでもうんざりした気持ちを抑えることができずに私は言った。
「やっぱりもう下駄箱は埋まってるみたいだね」
渡り廊下と呼ぶには短すぎる、校舎と武道場を結ぶ通路の先のアルミのドアを開け、そこから表口の方に曲がると武道場の玄関に出る。その玄関には20足ほどの上履きが雑然と並べられていた。上履きの上には靴下が入れられているものもある。柔道と剣道の授業は裸足で行われるのだ。私と彩はすでに教室で脱いで来ていた。
その上履きの列の最後方には、今まさに上原やその友人の小川たちのグループが上履きを並べて置こうとしている。
裏口から玄関に出たところで立ち止まり、彼女らを見ていると、ちょうど上履きを脱ぎ終わった上原と目が合った。私はすぐに目を逸らし、上原と少し離れた場所に自分の上履きを置いた。私に倣って彩も、私の上履きの隣にそれを置く。玄関と剣道場の間には上半分が窓ガラスになったスライドドアがあるが、現在はそれが開け放たれている。私達が最後の入場者だろうと言うことで、剣道場に入った後、彩がそれを閉じた。
彩の手でスライドドアが閉じられようとしている中、私は玄関を垣間見る。同じ色、同じ形をした上履きが将棋の駒のように途切れながらも並んでいる。上履きの甲の部分には油性マジックで所有者の名前が書かれているが、これだけ上履きがあると自分の物を見つけるのにも時間がかかりそうだ。自分がどこに上履きを置いたかを、授業終了後まで覚えておかねばならない。授業が終わったら、ここが人混みであふれる前にさっさと上履きを履いて教室に戻ろうと、私は胸に誓ったのだった。




