第93話「蜀漢征伐 ~その2~」
要衝・陽平関がいとも容易く陥落したことは姜維にとって大きな誤算であった。
陽平関の味方と合流すればまだ再起の目はある。そう信じて、生き残った僅かな配下たちと共に日夜休まず馬を走らせて来た。
しかし、その希望はこの瞬間、脆くも崩れ去ったのである。
「こうなればもはや剣閣まで退くしかない。漢中で未だ奮戦しているであろう味方たちを見捨てることにはなるが、やむを得ん……」
それは苦渋の決断であった。
姜維は軍を転進させると、もうひとつの要衝・剣閣へと入り、防備を固めた。
剣閣へと向かう途中、ようやく成都から到着した援軍とも合流を果たし、なんとか魏軍と渡り合えるだけの兵力を得ることに成功する。
一方、鍾会も漢中の各拠点の攻略は配下たちに任せ、自らは大軍を率いて姜維を追って剣閣近くに陣を敷いた。
かくして、剣閣の地を舞台に両雄は激突した。
魏の蜀への侵攻が激しさを増すなか、魏の都・洛陽は平穏そのものであった。
その様子はとても戦時には見えず、民衆たちはいつもと変わらぬ生活を送っている。
そして、司馬昭の息子・司馬炎もまた、戦のことなど気にも留めない様子で、友人と一緒に呑気に街中を歩いていた。
「言っておくが俺は決して遊んでいるんじゃないぞ? 街の平穏を守るため、見廻りをしているのだ。陛下のお膝元たるこの洛陽で、あろうことか物取りが後を絶たないとか。魏の臣としてこれを放置する訳にはいかん。分かってくれるな? 我が友・劉弘よ」
司馬炎はわざとらしく身振り手振りを交えながら隣を歩く友の顔を覗き込んだ。
劉弘。字は和季。
それが司馬炎の友人の名である。
かつての鎮北将軍・劉靖の息子であり、司馬炎とは同い年であった。
劉弘は1つため息をつくと、呆れたように言葉を返した。
「はいはい。いい歳した司馬家の御曹司が昼間からプラプラと街を遊び歩いてるなんてことは、くれぐれも司馬大将軍や奥方には内緒にしておこう」
「そいつはどーも」
幼いころから共に学問を学んできた仲である。
もはやお互い遠慮などなく、このように挨拶代わりに軽口を叩きあうのが日常であった。
そんな他愛ない会話をしながら2人が歩いていると、前方に何やら人だかりが出来ていることに気がつく。
「やけに騒がしいが、どうした?」
そう言って司馬炎が人だかりの中心に割って入ると、そこには傷を負った中年の男が地面に蹲っていた。
男は苦痛に顔を歪めながら、司馬炎に事情を説明し始める。
「賊に襲われ、大事な商品が馬車ごと盗まれた。街道を進んでいる間は傭兵に守ってもらっていたんだが、都について1人になった途端、奴ら待ってましたと言わんばかりに襲ってきやがってな。いてててて……。抵抗したらこの通りだ」
「なるほど。都でわざわざ事を起こすとは舐められたものだな……。いいだろう。暇つぶしにその賊どもを捕え、商品も取り返してやるよ」
司馬炎はそう言うと、近くの者から馬を借り、すぐさま賊が逃げたという方角へと駆けていった。
劉弘もまた司馬炎の行動に若干呆れつつも、馬にまたがって後に続いていく。
突然のことにざわつく群衆たち。
その中にポツリと呟く声があった。
「なんだか面白そうですね。よーし……」
まるで正体を隠すように外套に身を包んだその声の主は、群衆から離れると一気に跳躍した。
風を受け、目深に被っていた外套が外れ、その美しい顔が露になる。
その者は若い女であった。
女は家屋の屋根に着地すると、そのまま屋根伝いに司馬炎たちの後を追った。
こうして3人の者が賊を追い洛陽の街から飛び出した。
洛陽の街から東へ進むと嵩山という高い山がある。
賊の根城はこの山麓にあった。
大きくゴツゴツとした岩々がその根城を隠している。
そしてその根城から少し離れた岩陰に司馬炎と劉弘は身を隠し様子を伺っていた。
「敵の根城を見つけたはいいが、さて、どう踏み込むか……」
司馬炎がそう呟いたその時、1人の女が姿を現した。
肩まである黒く艶のある髪。すらりと細いが、しかし出るべきところはしっかりと出ているとても女性らしい身体であった。
その顔立ちは美しいものの、まだ幼さを残しており、司馬炎より10歳以上は年下に見える。齢14~15といったところであろうか。
女はキョロキョロと見渡したのち、賊の根城の入口を見つけると、そのまま根城へと入っていった。
「おいおい、あの娘、まさかあそこが賊の住処と知らないのか?」
女の信じられない行動に目を丸くする司馬炎。
劉弘もまた動揺を隠せない。
「いや、明らかに分かった上で入っていったように見えたが……。と、とにかく俺らも突入しよう」
司馬炎と劉弘の2人は慌てて賊の根城へと突入した。
するとそこでは信じられない光景が繰り広げられていた。
「やあああああああああ!」
女が声を上げ賊の1人を剣で切り裂く。
続いて背後から迫っていたもう1人の賊の攻撃を素早く避けると、そのまま剣を襲ってきた賊の胴体に突き刺した。
瞬く間に2人をやられ、他の賊たちは動揺を見せるが、しかしそれも一瞬のことであった。
「相手は女1人だそ! 何をビビってやがる!」
賊の頭目らしき男の一喝により、正気を取り戻した賊たちは、女をぐるりと取り囲みジリジリとその距離を詰めていく。
一方、女の方はと言うと、
「あっ! 抜けない!」
深く刺しすぎたのか死体から剣がなかなか抜けず、困っていた。
これを好機とばかりに、賊たちは一斉に襲いかかる。
が、女は身軽に全ての攻撃を躱すと、丁度良かったと言わんばかりに賊の1人が持っていた槍を奪い取ってみせた。
そして、今度はその槍で賊らを纏めて薙ぎ払ったのである。
「あと残っているのは貴方だけですね。貴方がこの賊たちの頭目ですか?」
そう言って女が向けた槍の穂の先には1人の髭面の偉丈夫のみが残されていた。
「いかにも俺がコイツらの頭領だが……。小娘、俺の可愛い子分らにこんなことしてタダで済むとは思っていないだろうな?」
「はぁ……。降伏はしてくれないのですね」
「けっ! 舐めるのも大概にしろやぁ!」
女の言葉を挑発と受け取った頭目は怒りで顔を真っ赤に染め、女に突進した。
頭目の得物は巨大な戦槌であった。この攻撃をもろに喰らえば女の細い体は一撃でひしゃげてしまうだろう。
しかし、その攻撃が女に当たることはなかった。
女は跳躍すると、なんとその戦槌の上に着地してみせた。
そしてそのまま槍で頭目の頭を貫いた。
「そ、そんな……バカな……」
頭目はそう言い残すとゆっくりと地面に倒れた。
それからその頭目が言葉を発することも動くこともなかった。
「ふぅ……」
女は頭目が倒れると同時に地面に着地すると、槍を振り穂先についた血を落とす。
これで賊は全て片付けた。そう思い女は完全に油断していた。
しかし、次の瞬間。
「きゃっ……! ぐ、ぐうっ……」
女は背後から近づいてきた賊によって羽交い締めにされてしまう。
先ほど蹴散らした賊のなかに、傷が浅くまだ息のあった者がいたのである。
「この女、よくもやってくれたな。このまま首を絞めて殺してやろうか。いや、この細い首いっそへし折ってくれようか!」
賊はそう言うとさらに拘束する力を強める。
こうなってはもはや女にはどうすることも出来ない。
「くっ……、離し……なさい……! かはっ……!」
そう言われ、賊が素直に言うことを聞くはずもなく、女の抵抗する力はみるみるうちに弱まっていく。
そして女が死を覚悟したその時であった。
「えっ……」
突如背後からの拘束が解け、驚き振り返るとそこには斬られて既に息のない賊の姿があった。
そして、さらには2人の男、司馬炎と劉弘の姿もあった。
戸惑う女に司馬炎が優しく声をかける。
「大丈夫か? すまない、さっさと加勢すれば良かったんだが、あまりにも君が強かったんで思わず見惚れて出遅れた」
「い、いえ……! ありがとうございます。実は都で賊を追う貴方がたを見つけて、面白そうだったのでつけてきたのですが、途中で見失ってしまい……。てっきり既に賊と交戦しているものと思って急いで飛び込んだら私1人で焦りました」
そう言って、えへへと笑う女に、司馬炎と劉弘は顔を見合わせる。
「焦っているようには見えなかったよな……? 劉弘」
「ああ……。賊相手にあそこまでの大立ち回り、一体この娘は何者なんだ……」
そんな2人の反応に、女はしばらく首を傾げていたが、やがて思い出したかのように己が身分を明かした。
「そういえば名をまだ名乗っていませんでした。私は徐州刺史・胡奮が娘、胡芳。父が司馬大将軍の命で都に呼ばれたので、その供で参りました。あわよくば西での蜀征討の戦にて華々しく初陣を飾れるかもと心躍らせておりましたが、女の身ゆえ、それも叶わず……。暇を持て余していたところ先ほどの都での騒動に出くわしたのです」
女の明かしたその正体に司馬炎も劉弘も大いに驚いた。
しかし、その一方で合点のいく部分もあった。
司馬炎は胡芳に近づくと、馴れ馴れしくその肩に手を回した。
「胡奮殿といえば曹魏随一の勇将とうたわれる御方。なるほど、その手ほどきを幼少より受けていたとなれば、先ほどの見事な武技の数々にも納得がいく。ふむ、勇ましくも美しき女武者か……。とても気に入った。胡芳、といったか? どうだ、俺の女にならないか?」
そう言って爽やかな笑顔を向ける司馬炎。
元々整った顔立ちの司馬炎である。そのうえこのような笑顔を見せられて、首を縦に振らない女などそうはいない。
しかし、胡芳は露骨に嫌そうな顔を浮かべると、邪険に司馬炎の手を払い除けた。
「助けていただいたことには感謝します。ですが、私そういうのには一切興味ないので。それに、お姿や立ち居振る舞いから何となく感じてはいましたが、父の名を聞いても怖気付かずに口説いてくるあたり、貴方かなりの家格の者なのでしょう? ならば、そのように軽々しい態度はお控えになったほうが良いと思います。家の名に傷がつきます 」
胡芳のあまりにもきっぱりとした物言いに司馬炎は思わず唖然とする。
その一方でとなりの劉弘はケタケタと笑っていた。
「口説いた女に説教されるとは、こいつは傑作だ! 司馬炎、お前は胡芳殿の言う通り、司馬家の御曹司としてもう少し自覚を持った方がいいぞ」
「劉弘、お前まで……」
そんな2人の会話から、胡芳はようやく目の前にいる人物が大将軍・司馬昭の息子であることを知ったのであった。
「大将軍のご子息ともあろう方が兵も引き連れず賊の根城に踏み込むなんて……。司馬炎殿は自由奔放な方と都で噂になっていましたが、まさかこれほどとは思いませんでした」
「ははは……、まあでも実際に単身で賊の根城に突入していったのは貴女だけどね? 君も人のこと言えないと思うけどなぁ」
「くっ……それは……。うう……」
司馬炎と胡芳。
大捕物の果てに出会った2人は、その後も友人として度々一緒の時を過ごすようになる。
しかし、2人が友人からさらに深い関係に発展するのは、しばらく先のことであった。