第91話「蜀漢の落日 ~後編~」
夜が明けると、劉禅はすぐさま諸葛瞻を呼びつけた。
無論、姜維からの報告を握り潰した件について詰問するためである。
詰問の場には密告者である諸葛尚と、さらに重臣の黄皓が同席した。
劉禅は諸葛瞻に見えるように書状を広げると、開口一番、問いかける。
「この書状、見覚えがあるだろう?」
これに対し、諸葛瞻は初め驚いた表情を見せたが、やがて息子のバツの悪そうな顔を見て、全てを察したようであった。
諸葛瞻は答える。
「この書状は、私が中身を吟味したうえで陛下にお知らせするほどのものでもないと判断し、我が手元に留め置いたものにございます。姜維の虚言に陛下が惑わされぬよう配慮したまで。全ては陛下のためでございます」
反省を見せるどころか、この期に及んで忠臣面をするその諸葛瞻の態度は劉禅を激怒させるには十分であった。
劉禅は顔を真っ赤に染め、叫んだ。
「姜維の言が信ずるに値するか否か、判断を下すのはこの国の主たる朕のすることぞ! 図に乗るでない諸葛瞻!」
「も、申し訳ございませぬ! 出過ぎた真似を致しました!」
一喝され、ようやく己が非を認める諸葛瞻。
すると、それまでやり取りを黙って見ていた黄皓がこれに口を挟んだ。
「陛下。確かに諸葛瞻殿のしたことは責められて然るべきもの。しかし、お忙しい陛下を煩わせてはいけないと慮って行ったことです。どうかその辺にしておいていただけないでしょうか? それに今は過ぎたことを話すよりこれからのことについて話し合うべきかと存じます」
黄皓の言うことは至極もっともであった。
今こうしている間にも魏軍が兵を進めているかもしれない。
黄皓の言葉で平静さを取り戻した劉禅は、そのまま黄皓に尋ねた。
「すまぬ。では諸葛瞻の処分は一旦置いておき、話を進めるとしよう。黄皓、この姜維の意見、お主はどう考える?」
黄皓は答える。
「魏軍の侵攻、これ自体は事実でしょう。ですが、成都をも狙っているという姜維殿の見立てには疑問を感じますな。先の曹髦の一件からも分かる通り魏の政情は酷く不安定。そんな中、果たしてそのような大がかりな戦を仕掛けてくるでしょうか?」
黄皓の意見にうんうんと頷く諸葛瞻。
自分の考えはやはり間違っていなかったとでも言いたげである。
劉禅はそんな諸葛瞻への苛立ちを抑えながら、机上の漢中の地図へと目を落とす。
「陽平関に傅僉と蒋舒、漢城に蔣斌、楽城に王含、黄金囲に柳隠、そして沓中に姜維。漢中の守備には十分な戦力を割いている。が、これでもなお不足というのか姜維……」
正直なところ劉禅もまた姜維の見立てには懐疑的であった。
漢中、そして巴蜀は天険の地。いくら魏が大国と言えどそう易々と落とせるものではない。
もし攻略に失敗すれば曹爽の二の舞となり、司馬昭もまた求心力を一気に失うことになる。
そのような危ない橋を果たして今、司馬昭は渡るだろうか。
そう考えると、黄皓の言う通り此度の侵攻は姜維の言うような大袈裟なものではなく、ただの牽制程度のものと捉えるのが自然のように思えた。
「陛下、もしかしたら姜維殿は援軍として張翼殿・廖化殿を自らの元へと呼び寄せ、彼らと共に漢中で独立する腹積もりではないでしょうか?」
険しい表情でそう考えを述べたのは黄皓であった。
これにすかさず諸葛瞻も続く。
「流石は黄皓殿! 確かにそれなら姜維が魏の侵攻を事更に強調し、援軍を求めたことに説明がつく! 姜維め、なんと悪辣な男! 陛下、そうなると姜維は魏とも通じておるやもしれませんぞ!」
黄皓はあくまで可能性のひとつとして示したに過ぎないが、諸葛瞻は姜維が謀反人であると信じて疑わない様子で、劉禅は頭を思わず抱える。
しかし、劉禅とて成都に戻らず沓中に駐屯し続ける姜維に不信感がないわけではなく、2人の言うことを完全には否定出来なかった。
「そうと決まればまずは張翼と廖化を捕え、計画を吐かせるのが早い! 全てはこの諸葛思遠にお任せを!」
先程まで詰問を受けていたことなどすっかり忘れ、意気揚々と今にも飛び出していかんとする諸葛瞻。
流石にそれは早計だと、劉禅が手を伸ばし止めようとしたその時であった。
年少という立場を弁えてそれまで沈黙を貫いていたその男は、諸葛瞻の前に立ちはだかるとその首元を掴み怒鳴りつけた。
「いい加減にされよ父上! 張翼殿も廖化殿も、もちろん姜維殿も謀反人と決まったわけではない! にもかかわらず、あろう事か尋問に及ぼうとするとは漢の重臣とは思えぬ軽挙! まさに国家に仇なす奸臣が如き所業!」
その男、諸葛尚は実父をそう罵ると乱雑に掴んでいた手を離した。
その反動で諸葛瞻はその場に尻餅をつく形となる。
「親に対してその口の聞き方……! しかもあろうことかこの私を奸臣呼ばわりとは、いくら子といえど許せぬ!」
諸葛瞻はすぐさま起き上がると、拳を振り上げ、諸葛尚に殴りかからんとした。
が、その拳が尚に触れることはなかった。
黄皓が2人の間に入り、止めたのである。
「やめよ! 陛下の御前で見苦しい! 」
その一言で2人とも冷静さを取り戻した。
劉禅に対し、深々と頭を下げる諸葛瞻と諸葛尚。
劉禅は苦笑しながら言う。
「諸葛尚、そう言えばお主の意見をまだ聞いていなかったな。その感じだと、お主は黄皓・諸葛瞻とは異なる意見ということか?」
問われた諸葛尚は首を縦に振ると、己が考えを述べた。
「魏は確かに内乱が続き、長らく混迷を極めておりましたが、今は司馬昭のもと1つに纏まっているように見受けられます。諸葛誕、曹髦といった内憂を取り除いたいま、魏軍は十全の状態で我らを攻めることが出来るでしょう。司馬昭は傑物。侮ってはなりません。現状の漢中の兵力では守りきることは不可能という姜維殿の見立ては間違っていないと私は思います」
この意見に黄皓と諸葛瞻は苦い顔を浮かべる。
諸葛尚の意見は、魏の大侵攻は考えられないとする2人の主張とは真っ向から対立するものである。
それは至極当然の反応と言って良かった。
相反する2つの意見。果たしてどちらを採るか、判断は劉禅に委ねられた。
「ううむ、魏軍の大侵攻は事実か否か……。真であれば漢中は危うく、偽りであれば姜維に二心ありと考えられる。どちらにせよ、漢の今後を大きく左右する、今がまさに国家存亡の機ということか……」
劉禅は思案する。
しかし、いくら考えを巡らせても結論を出すことは出来なかった。
もはや劉禅は信じるべき者が誰か、分からなくなっていた。
そして彼はここで判断を誤る。
「一先ず漢中に斥候を多く放ち、様子を探らせよう。決断を下すのはそれからでも遅くない」
そのような悠長なことをしている暇などないということをその場の誰もが理解していた。
無論、劉禅自身も。
信じるべきものを見失った彼は、事態から目を背け、そして逃げたのである。
漢中へと攻め入った魏軍は総勢18万にも及ぶ大軍であった。
その指揮官は征西将軍・鄧艾、雍州刺史・諸葛緒、そして鎮西将軍・鍾会の3将である。
この圧倒的戦力を前に、蜀軍は完全に後手に回る形となった。
劉禅が結論を先延ばしにした結果である。
かくして、魏と蜀の最後の戦いの火蓋が切って落とされた。
蜀漢滅亡のときは、すぐそこまで迫っていた。