第90話「蜀漢の落日 ~前編~」
深夜。劉禅は寝苦しさを感じ、目を覚ました。
ゆっくりと身体を起こすと、着ている服が汗でぐっしょり濡れていることに気付く。
「今日は暑いからな……」
この日は特に政務で忙しかったこともあり、どの妃のところにも渡らず、珍しく一人で就寝していた。
着替えと水でも持ってきてもらおう。
そう思い、部屋の外にいるであろう衛士を呼ぼうとして、違和感を覚えた。
「こんな夜更けだというのに、やけに騒がしいな」
遠くからかすかに聞こえてくるのは複数の人の声。
もしや、何かあったのか。劉禅は警戒しながら部屋の戸を開ける。
だが、開けた先には誰もおらず、ただ暗い廊下が続くのみであった。
「おい、誰か! 誰かあるか!」
そう声を張り上げるが反応はない。
いつもであれば部屋の前に護衛の者が立っているはずだが、その者たちの姿はなく、さらにはここまで大声で呼んでも誰も来ないというのは明らかに不自然であった。
緊張しながら、壁伝いにゆっくり廊下を進んでいく。
それと同時に遠くからかすかに聞こえていた男たちの声もまた徐々に大きくなっていった。
「これは笑い声……? それにこの声に聞き覚えがある」
劉禅は暗闇の中、唯一光が漏れている扉に手を掛けた。
そして、その扉を開いた瞬間、辺りは真っ白な光に包まれた。
「ガハハ! いや~、めでたい! 実にめでたい! 今日はいい日だな兄者! めでたい日に飲む酒は一段と旨いぜ!」
「祝いの場とはいえあまり羽目を外し過ぎるなよ、翼徳。またこの間みたいに大暴れされては敵わん」
劉禅がその目を開くと、目の前には2人の偉丈夫の姿があった。
「翼徳」と呼ばれたその男は反省する様子もなく、陽気に再び酒杯をあおる。その様子に、もう一人の「兄者」と呼ばれた男は諦めたようにため息をつくと、己が長い顎髭を撫でた。
この二人の名を劉禅は知っていた。
「関羽……! 張飛……! どうしてお主らがここに」
古き家臣の名を呼ぶ。
関羽は220年の樊城攻めの際に孫呉の裏切りに合い討死、張飛もまた翌221年に配下に背かれ殺された。
2人ともとうの昔にこの世を去っている人物である。
混乱する劉禅に対し、張飛が答える。
「おいおい、若殿大丈夫か? 曹操の野郎を散々に破って、俺たちは漢中を手に入れた! 今日はその祝いの場じゃねえか」
「曹操……? 漢中……? まさか……!」
辺りを見渡してようやく気がつく。
懐かしい顔は関羽や張飛だけではない。
まず、父・劉備の姿が目に入る。その傍らには軍師・諸葛亮の姿もあった。
趙雲、馬超、黄忠、魏延。この他にも往年の名将たちが尽く顔を揃えている。
「そうか、 この光景は確か……」
219年、劉備軍は当時曹操が領していた漢中へと侵攻、定軍山の地にて守将・夏侯淵を討ち取り、大勝利を収めた。
その後、漢中を奪還せんと曹操自ら大軍で攻め来たがこれも撃退。
その勝利を祝って大宴会が開かれた。
まさに劉備が最も天下に近づいていた時である。
「ん? こんなめでたい場だってのに、なんで泣いてるんだ若殿」
「泣いてる……?」
張飛にそう指摘され、初めて己が頬をつたう涙に気がつく。
そして目元を拭ったそのとき、その懐かしき光景は一瞬で消えてしまった。
劉禅は暗い部屋にポツンと佇んでいた。
関羽も張飛も、誰の姿もそこには無い。
「ははは……。皆いなくなってしまった。皆……もうこの世にはいない」
現実に引き戻され、虚しさを感じたその時。
慌てた様子で1人の宦官が部屋に駆け込んできた。
「陛下、ここにおられましたか! 一大事にございまする!」
「このような夜更けにそんな慌ててどうしたというのだ」
「諸葛尚殿が陛下への謁見を求めて参っております! なんでも漢中のことで急ぎお伝えしなければならないことがあるとか……!」
臣下が深夜に謁見を求めるとは何とも無礼な話である。
本来であれば追い返して然るべきであるが、しかし劉禅はそうはしなかった。
漢中は対魏の最前線。
もし魏軍に何か動きがあったとすれば、すぐに対応しなければ手遅れになりかねない。
「分かった。すぐに向かう」
劉禅は急ぎ着替えると諸葛尚の待つ謁見の間へと向かった。
「このような夜更けの訪問、申し訳ございません。陛下に何としてでもお渡ししなければならないものがあり、されど日中では陛下に渡すこと叶わぬため、こうしてご無礼を承知で罷り越しました」
劉禅が謁見の間に着くや否や、諸葛尚はそう言って懐より1枚の書状を取り出した。
その書状は酷くクシャクシャで汚れや破れている箇所も目立つ。
「これは? 昼間では朕に渡せぬとは一体どういうことか」
「まずはお読みいただきたく。差出人は沓中の姜維殿です」
諸葛尚に言われるがまま書状に目を通す。
するとそこには驚くべき内容が書かれていた。
姜維が言うには、「魏の大軍が漢中に迫っており、その数や動きから狙いは漢中だけにあらず、成都まで攻め落とさんとしている」というのだ。
また、それを阻止するべく「張翼・廖化を指揮官として大規模な援軍を送ってほしい」とも書かれていた。
もしここに書かれていることが本当であれば国の存亡に関わる一大事である。
しかし、劉禅は1つ疑問を覚えた。
「1つ尋ねたい。このような大事な書状、何故そなたが持っている」
劉禅がそう問いかけると、諸葛尚の顔が少し暗くなる。
そして、わずかな間があって重たそうにその口を開いた。
「この書状は……父の部屋より盗んだものです。近頃、父が怪しい動きをしていたため不審に思い探っていたところ、これを見つけました」
「つまり、お主の父・諸葛瞻はこの書状の存在を知っておきながら朕に知らせず、揉み消そうとしていたと……?」
劉禅の問いに諸葛尚が黙って頷く。
「そうか……。日中では渡せぬとはそういうことであったか……」
諸葛瞻は黄皓と並ぶ蜀漢の重臣、なにより諸葛亮の子である。
そのような立場の者が魏に利を与えるような行動をした。
劉禅の心に真っ先に沸いた感情は怒りではなく悲しみであった。
「諸葛尚、大儀であった。明日、お主の父を呼び出し事情を聞く。お主も辛いとは思うが立ち会ってもらうことになる。良いな?」
「はい……」
そうして諸葛尚が下がると、劉禅のみが謁見の間に残される形となった。
静寂のなか、劉禅は消えそうなほど小さな声でポツリと呟く。
「もう疲れた……。終わりにしたい」
劉玄徳が志を同じくする者たちとともに戦い、建てた国・蜀漢。
その終焉の時が刻々と近づいていた。