第89話「兄弟」
「この兄を呼び捨てか……。いいだろう、私も司馬一族の犬に成り下がったお前をもはや弟とは思わん。全力で来い、夏侯和。見事この首とってみよ」
夏侯覇はそう言って、肩に刺さった矢を強引に引き抜くと槍の穂先を夏侯和へと向けた。
一方、夏侯和も二射目の矢を弓に番える。
そして次の瞬間。
「がはっ!」
地面に倒れたのは夏侯覇のほうであった。
しかし、夏侯和の矢はまだ放たれていない。
夏侯覇の頭を貫いたその矢は反対方向、すなわち夏侯覇の背後から飛んできたものであった。
「本当に愚かな人だ。私は一言も『一騎打ち』とは口にしていないというのに、後背への警戒を怠るとは」
そう呆れたように呟くと、夏侯和は夏侯覇にゆっくりと近づいた。
まだかすかに夏侯覇に息があるのを確認すると、夏侯和はすかさず小刀を取り出し、止めを刺す。
そして完全にこと切れたのを確認すると叫んだ。
「この夏侯義権が、敵将・夏侯覇を討ち取ったぞ!」
かくして、魏の名将・夏侯淵の子に生まれながら蜀漢に忠を捧げた男・夏侯覇は、ここ洮陽の地でその生涯を閉じた。
魏軍の総大将・司馬望の幕舎。
ここに戦果報告のため夏侯和が訪れていた。
「夏侯和殿、大儀であった。期待通り夏侯覇を討ち取ってくれたようだな」
「いえ、夏侯覇を討てたのは司馬望殿より授かりし策があったからこそ。城の防備を手薄に見せ、あえて城内へと誘い込み、敵を分断させて伏兵でそれぞれ撃破する。非才なる私には思いつかぬ見事な策でございました」
そんな会話をしていたその時。
さらなる朗報が司馬望のもとに届けられる。
「伝令! 鄧艾隊、姜維率いる敵本隊と交戦しこれを打ち破りました! 敵、退いていきます!」
伝令兵のもたらしたその報に司馬望も夏侯和も歓喜する。
こうして戦いは魏軍の圧勝に終わり、姜維の北伐はまたも失敗に終わった。
戦いに敗れた姜維は成都には戻らず、沓中の地に駐屯した。
もはや成都に姜維の居場所などない。
度重なる北伐の失敗は姜維の信用を失墜させるには十分なものであり、黄皓とその取り巻きが幅を利かせている成都に戻れば命すら狙われる可能性があった。
そして、姜維が国の中枢と離れているこの状況は、魏から見れば好都合であった。
263年、司馬昭はついに決断を下す。
「この長く続く乱世に終止符を打つべく、手始めに蜀を滅ぼす! 姜維を沓中にて釘付けにし、その間に漢中を奪取する! そしてその勢いのまま成都を落とすのだ!」
蜀を討ち、呉をも滅ぼし中華を一つにする。
それを己が使命と信じ、ついに司馬昭はその一歩目を踏み出す。




