第88話「死に場所」
219年、漢中の要衝・定軍山。
幕舎で身体を休める夏侯覇のもとに、驚くべき報が告げられる。
「伝令! 劉備軍の奇襲を受け、夏侯淵将軍がお討ち死にされたとのこと!」
夏侯覇は己が耳を疑った。
父・夏侯淵は数多の戦場を潜り抜けてきた豪将。そう簡単に死ぬような人物ではない。
夏侯覇は伝令兵に詰め寄ると、その胸ぐらを掴んで問いただした。
「その報、真か? 敵の流した偽報ではないのか」
「偽報ではございません! 夏侯淵将軍自ら、わずかな手勢のみで逆茂木の修復に当たっていたらしく、そこを敵に突かれたとのことです」
それを聞いてもなお信じられない夏侯覇はすぐさま斥候を放って情報の収集を試みる。
だが、耳に入ってくる情報はどれも父の死が事実であることを証明するものばかりであった。
その後、指揮を引き継いだ張郃により曹操軍はなんとか態勢を立て直す。
しかし、この定軍山での戦いは曹操軍にとっても夏侯覇自身にとっても苦い結果に終わった。
「仲権、顔色が優れないな。もしやまだ淵のことを引きずっているのか」
定軍山の戦いをはじめとする漢中をめぐる一連の攻防がひと段落した頃、未だ父の死を引きずる夏侯覇に声をかける人物がいた。
夏侯惇である。
伯父のあまりな物言いに夏侯覇は思わず眉をひそめる。
すると、それに気が付いた夏侯惇はガハハと笑った。
「そう怖い顔をするな。俺とて悲しくないわけじゃない。淵は俺の可愛い弟だ。これまで共に何度も死地を乗り越えてきた戦友でもある。だがな仲権、人なんてものはどれだけ身体を強く鍛えようが、逝くときは驚くほど簡単に逝ってしまうものだ。戦場に身を置いているのなら尚更な。淵も武人、それは分かっていたはずだ。孟徳の天下を見れず逝くことに多少の無念はあったかもしれないが、しかし戦場で死ねたのだからまあ本望というやつだろう」
これが伯父なりの励ましの言葉なのだろう。
酷く不器用だが、しかしその言葉に夏侯覇は少し救われた気がした。
「本望、ですか……。伯父上、気にかけてくださりありがとうございます。そうですね。いつまでも塞ぎ込んでいるわけにはいかない。私も早く父のような立派な将とならねば」
そして、自分も死ぬのであれば父のように戦場で堂々と。
死ぬ間際、「本望」と思えるような最期を迎えたい。
夏侯覇がそんな思いを抱き始めたのもまたこの時であった。
262年、魏領・洮陽城内。
「そうか。ここが私の死に場所か……。姜維殿とともに漢の再興をこの目で見ることが叶わないのは残念だが、しかし悪くない」
夏侯覇はニヤリと笑みを浮かべると次の瞬間、跳躍した。
間合いを一気に詰め、弓兵が矢を放つより先に懐へと入り込む。
「まずは一人目……!」
夏侯覇の槍が兵の胴を切り裂く。
「二人目……!」
隣の兵もまた抵抗する間もなく槍の餌食となった。
「三人目……!」
そう叫び、三人目の身体を槍で抉らんとしたその時であった。
ドスッという鈍い音。
一本の矢が肩を貫いていた。
「ちっ……!」
苦痛に顔を歪めながら矢の飛んできた方向に顔を向ける。
するとそこにいたのは。
「兄上、いえ蜀将・夏侯覇! 御首頂戴します!」
その射手は、魏に残った夏侯覇の弟・夏侯和であった。




