第81話「御曹司」
孫綝の専横は孫休即位後さらに悪化の一途を辿っていた。
そんななか、呉帝・孫休のもとにとある報告がもたらされる。
「なに、孫綝が帝位を狙っているだと……? 張布、それは真か?」
「はい。この耳で聞いたので間違いありませぬ。先日、孫綝からの献上品を陛下が拒んだことがありましたでしょう? あの後、奴めは我が屋敷に来ましてな。その時、酔った勢いで言っておりました。いずれ帝位を我が物にする、と。陛下に拒絶されたのがよほど腹に据えかねたのでしょうな。これはすぐにでも報告せねばと思い、急ぎ参った次第です。陛下、いかがいたしましょう?」
張布の言うことが真実であれば国家を揺るがす一大事である。
だが、孫休は腕を組みしばらく考えを巡らせたのち、静かに首を横に振った。
「それを知ったところで朕にはどうすることも出来ぬ。此度の件、聞かなかったことにしよう。朕にできるのはせいぜい孫綝の機嫌を損ねないよう一層大人しく過ごすのみだ。お主も己が命が大事であろう? ならばこのことはもう忘れよ」
孫休はそう言うと、張布に背を向け部屋を出た。
張布の必死に呼び止める声が聞こえたが振り返らなかった。
部屋を出てからしばらくして、ふと己が手から血が出ていることに気が付く。
「それほど強く握りしめていたか。朕は……、朕は……!」
それは皇帝をないがしろにし、権力を恣にする孫綝への怒りか。
否。命可愛さに忠臣の言葉に背を向け逃げる己の不甲斐なさへの怒り。
だが、いまの孫休にどうすることも出来ないのもまた事実であった。
その後孫休は孫綝とその一族をさらに厚遇。これに孫綝も気を良くしたため、大きな騒動に発展することはなかった。
しかし両者の関係は未だ危うい均衡の上にあり、火種は依然燻ったままであった。
一方その頃、魏の都・洛陽では1つの小さな騒動が起きていた。
「おい、てめえか! 俺の女に手出した命知らずは! てめえ、ただですむと思うなよ!」
そう叫ぶ大男の顔は怒りで赤く染まっていた。
その男の対面には一人の若者がおり、その後ろに女が身を隠すように立っている。
「まあまあ、そういきり立たないでくださいよ。ほら、皆さん見てますよ? 冷静に冷静に」
その若者は怯える様子などなく、それどころかヘラヘラと大男を宥めはじめた。
しかしそれは逆効果だったようで、大男は若者の胸ぐらを掴むと強く引っ張りあげた。
「兄ちゃんよ、これ以上俺を挑発してみろ? その口、二度と開けねえようにしてやるからな」
「おお、怖い怖い。俺を殴るんですか? 彼女にいままで散々してきたように」
なおもヘラヘラし続ける若者に、大男の怒りはついに頂点を迎えた。
大男は挙げた拳を容赦なくその若者の顔面に振り下ろした。
誰もが目を背けた次の瞬間。
「ぐおおおおおおお! て、てめえ!」
地でのたうち回っていたのは大男の方であった。
「おじさん下半身無警戒すぎでしょ。男の一番大事なところなんだからちゃんと守らないと」
そう言って若者はケラケラと笑う。
それにつられ周囲の野次馬たちも笑い始めた。
大男の拳が振り下ろされたその時、若者は大男の股間を強く蹴り上げたのである。
こればかりはいかに身体を鍛えていようがひとたまりもない。
「おじさん、まだやるの? やんないの? どっち?」
若者は苦悶の表情を浮かべる大男を見下ろし、問いかける。
だが、大男は言葉を返すことも立ち上がることが出来ずただ睨みつけるのみであった。
「ははは。無様だねぇ。キミ、どう? 少しは溜飲が下がった?」
若者は振り返り、後ろに隠れていた女に声をかける。
女は頬を赤く染め、若者の腕に絡みついた。
「は、はい。ありがとうございます。あの、とてもお強いのですね」
「なに、惚れた女のためならこれくらい造作もないさ」
若者はそう言って、衆目の中ということも気にせず女を強く抱きしめた。
女も目をとろんとさせ身体を完全に若者に委ねる。
その時であった。
「こんな大通りで堂々と何をされているのです?」
冷たい女性の声が響いた。
その声は抱かれている女のものではない。
「何って見てわからないのかい? 愛する女を抱きしめているのさ。場所なんて関係ない。抱きしめたいときに抱きしめる。それが俺の流儀でね」
「へぇー、愛してる。へぇ……」
「そう、愛……。ん、その声は」
ここにきて若者はようやく我に帰る。
背筋に悪寒がはしる。恐る恐る振り返ると、そこにいたのは若者のよく見知った女性であった。
整った顔立ちに艶のある長い黒髪。そして引き締まっているところは引き締まり出るべきところは出ている、服の上からでも分かるその女性らしく美しい肢体は多くの男の目をひくだろう。
だが、若者の顔はみるみるうちに青ざめていく。
「はぁ……。毎晩のように遊び歩いては違う女をとっかえひっかえ。しかも此度は人妻ですか」
「い、いや。違うんだ瓊芝。そこの娘はな、日常的に夫から暴力を受けていたんだ。それを知って見過ごすわけにはいかないだろう? そう、これは人助けなんだ」
若者は必死に弁解するが、瓊芝と呼ばれた女性はそれを鼻で笑った。
「なるほど人助けですか。お優しいのですね。で、身体まで重ねる必要あります?」
「いや、それは、そのぉ……。ははは、昨夜のことまでもう調べ済みなのね」
答えに窮し、若者は笑って誤魔化そうとするが、それで誤魔化せるはずもない。
その姿は先ほどまで大男相手に威勢の良かった人物とはまるで別人のようであった。
追い詰められた彼の取った行動。それは。
「さいなら!」
逃げであった。
残された瓊芝は呆れたように大きくため息をつく。
すると、それまで黙って2人のやり取りを見ていた女が瓊芝に恐る恐る声をかけた。
「あ、あの。すみません。さきほど貴方様はあの方から瓊芝と呼ばれておりましたが、もしや貴方様は楊艶様でございますか。ということはまさかあの御方は……」
「貴方、相手がどこの誰かも知らずに身体を重ねていたの? はぁ……。お察しの通り、あの尻軽男は司馬大将軍のご嫡子・司馬炎様。家柄と顔の良さだけが取り柄のどうしようもないクズ。だけど私の大切な夫なので、以後近づいたら容赦しないから」
楊艶はそう言って女を睨みつけると去っていった。
こうして、その場には呆然とする女と未だ蹲っている大男だけが残された。
両者に気まずい空気が流れる。
「あの……、これどうしてくれるの……?」
女の問いに答える者は誰もいなかった。
司馬炎。字は安世。司馬昭と王元姫の子。
後に晋を建国し、中華の統一を果たすこの男も今はただ一人の若者に過ぎない。
彼が歴史の表舞台に出るのはもう少し先の話である。




