第80話「孫綝暗殺計画」
257年9月。呉の援軍の指揮官であった孫綝は、寿春城の陥落を待たずに他の将より一足早く建業へと帰還していた。
ちょうど朱異を斬ったすぐ後のことである。
建業に帰還して早々、孫綝は呉帝・孫亮に謁見する。
彼はそこで己に敗戦の責がないと弁明するつもりであった。
だが、先に口を開いたのは孫亮の方であった。
「城では未だ文欽や于詮が奮闘しているというのにおめおめと逃げ帰ってくるとは。朕は其方のことを買いかぶりすぎていたようだ」
低く冷たい声。
それはこれまで孫綝に向けられていたものとは明らかに違う。
孫綝は背筋に冷たいものが走るのを感じながら恐る恐る答えた。
「け、決して逃げたわけではありませぬ。もちろん城内の味方を見捨てたわけでも。一度陛下に戦況のご報告をと思い、戻ったまで。今も向こうには多くの兵を残しておりますし、私自身も陛下へのご報告が終わればすぐさま戦場へと戻るつもりでした」
これまでの孫亮であれば、これで納得してくれるはずであった。
しかし、今回は違った。
孫亮の顔がより一層険しいものになっていく。
「戦況の報告ならこれまで通り使者を送ればよいだけではないか。よくもまあペラペラと嘘を並べられるものだ」
「なっ……!」
声を失う孫綝。
孫亮はさらに続ける。
「此度の侵攻はかつての孫峻の二の舞になる、そう朱異は言っていたが、まさにその通りになったな。あのとき朕は其方ではなく朱異の意見を聞くべきだった。その朱異もどこぞの者に斬られたゆえ、もはや意見を求めることも出来ぬが……」
「お言葉ですが陛下! なにも私は私怨で朱異殿を斬ったわけではございませぬ! 朱異殿が幾度も敗戦を重ねたゆえ、罰したまでのこと!」
嫌味たらしい孫亮の言い回しに、反論する孫綝の言葉が思わず強くなった。
すると、それまで黙って2人のやり取りを見ていた群臣のうちの1人が声を挙げた。
「陛下に口答えするとはなんと無礼な! 孫綝殿、貴殿は己が立場を分かっておられるのか!」
そう発言したのは全紀という人物であった。
彼の母は孫綝の従姉にあたる。
そのような立場にもかかわらず、全紀は擁護をするどころか面と向かって孫綝のことを非難した。
これに孫綝が怒らぬはずがなかった。
「ほほう、この私に説教を垂れるとは偉くなったものだな。なるほど、そうか読めたぞ! 貴様、さてはこの私が都を留守にしている間に陛下をたぶらかしたな? 私を失脚させ、その後釜に座るつもりであろう!」
顔を赤く染め、大声をあげる孫綝。
これに対し、全紀は小馬鹿にするように笑った。
「ふん、何を馬鹿なことを。私は臣下として当然のことを言ったまで」
「何だその態度は! 貴様ごときが図に乗るな!」
突然始まった喧嘩に戸惑う群臣たち。
これには全紀の父の全尚ですらおどおどするばかりである。
孫亮は深くため息をつくと、玉座から立ち上がり告げた。
「もうよい! 今日はこれで終いにしよう。だが孫綝、其方にはまだ聞きたいことがあるゆえ、後日再び呼び出す。覚悟しておけ」
こうしてその日の孫綝への詰問は終わった。
以降、孫亮と孫綝の関係は悪化の一途をたどる。
その後、寿春落城の報が建業にもたらされると、孫亮はさらに孫綝のことを激しく責め立てた。
孫綝は次第に宮廷に参内しなくなり、やがて両者の対立は決定的となった。
諸葛誕の乱の終結からおよそ半年後、呉に政変が起こる。
孫亮が全紀に「孫綝を討て」との密命を下したのである。
命を受けた全紀はすぐさま父・全尚にもこのことを伝えた。
「父上、良いですか。どこに孫綝の息のかかったものがいるか分かりません。事は慎重に、されど迅速に起こさなければなりません」
「そのようなこと言われずとも分かっておるわ。全てこの父に任せなさい」
こうして事は秘密裏に進むかと思われた。
だが、この計画はすぐさま露見した。
全尚が何も考えず、計画のことを妻に打ち明けてしまったのである。
全尚の妻とは、すなわち孫綝の従姉である。孫綝に密告しないはずがなかった。
かくして全尚・全紀の親子は捕らえられ、また首謀者たる孫亮も廃位を迫られることとなった。
第3代皇帝には孫亮の異母兄である孫休が迎えられ、その下で孫綝はさらに専横を極めていくのであった。