第78話「諸葛誕の乱 ~その8~」
それまで固く閉ざされていた寿春城の城門がついに開かれた。
中から姿を現したのは甲冑に身を包み騎乗した諸葛誕と、それに付き従う数十人の将兵たちであった。
明らかに降伏という雰囲気ではない。
敗北を悟った諸葛誕らが最後に一死報いるべく突撃を敢行しようとしていることは明白であった。
当然、これに対し魏軍は迎撃の態勢をとる。
「弓隊、構え!」
そう号令したのは司馬亮であった。
兵たちが列をなし、弓を構える。
司馬亮隊は寿春城正門前に布陣していた。
一方、諸葛誕は怯む様子もなく、それどころかニヤリと笑みを浮かべると1歩2歩と馬を前へと進めた。
しかし笑っているのは口元だけ、その目は血走っていた。
「突撃!」
諸葛誕がそう叫ぶと、後ろにいた兵たちは鬨の声をあげ、正面の司馬亮隊へ向けて進軍を開始した。
また、諸葛誕自身も愛馬の腹を勢いよく蹴って駆けだす。
「皆の者、意地を見せよ! 悪漢司馬昭とそれに与する者たちを必ずや根絶やしにするのだ!」
兵たちの先頭に出て、諸葛誕がそう味方を鼓舞したその時であった。
矢が一本、諸葛誕の頬を掠めた。
諸葛誕は一瞬痛みで顔を歪めたが、しかしそれだけであった。その矢は彼の歩みを止めるまでにはいたらない。
上を見上げると、何本もの矢が雨の如く降り注いでいた。しかしそのほとんどは諸葛誕にも、その後ろ兵たちにも当たらない。
どの矢も諸葛誕らに届く前に減速をはじめ、諸葛誕らの遥か前方の土に刺さったり、風に流されて脇へ逸れたりした。
斉射が早すぎたのである。
「これは好機! 敵が次の矢を番える前に敵陣へと流れ込むぞ!」
そしてその言葉の通り、諸葛誕らは次の矢を放たれるより早く、司馬亮の部隊へと食らいついた。
地面に落ちた魏の旗。それに重なるように魏兵が倒れる。
血と泥に塗れたその者はすでにこと切れていた。
そこには信じられない光景が繰り広げられていた。
わずか数十の諸葛誕軍が千をも超える司馬亮隊を圧倒していたのである。
そして、陣の奥深くまで斬りこんでいった諸葛誕はついに指揮官である司馬亮を見つける。
「司馬亮、貴様に問う。貴様は実の兄の暴虐をなぜ見過ごす!」
「これは異なことを言う。兄も私も国にただ尽くしてきただけ。民を虐げたことも、このように無用な乱を起こし他国の軍を招きいれたこともない」
司馬亮は諸葛誕からの問いを鼻で笑った。
司馬家の一人としての矜持がある。
いかに窮地であろうと、司馬亮はあくまで気丈な態度を崩さない。
「逆に私からも問いたい。貴方は何故このようなことを起こした。我が弟・伷は貴方の娘を娶った。我らは縁戚同士ではないか。勤勉で実直な貴方のことを、亡き兄もそして大将軍も信頼していたのだ。無論私もだ。なのに、どうしてこんなことをした」
「それは……」
諸葛誕は言葉を詰まらせた。
目は泳ぎ、明らかに動揺が見て取れる。
その時であった。
「ぐはっ!」
突如、諸葛誕の身体を背後から一本の刃が貫いた。
そして、その者は返り血など気にせず刃を強引に諸葛誕の身体から引き抜くと、司馬亮のもとへと駆け寄った。
「司馬亮殿、ご無事ですか!」
「おお、胡奮殿! すまない、助かった!」
胡奮。字を玄威という。
智勇に長けた若き将で、今回の戦では司馬亮隊にほど近い位置に陣を構えていた。
そのため、司馬亮隊の異変にいち早く気づくことができ、こうして急ぎ救援に駆けつけたのである。
「お、おのれ……」
地面に倒れた諸葛誕は手から離れた武器に何とか手を伸ばそうとする。
しかし、それを胡奮は見逃さなかった。
「こいつ、まだ息があったか」
胡奮はそう言うと諸葛誕の剣を遠くへと蹴飛ばし、倒れる諸葛誕に馬乗りになった。
そしてとどめを刺すべくその喉元に短刀を突き立てようとした。
だが、それを司馬亮が手で制する。
「諸葛誕。先ほどの私からの問い、どうか答えてはくれないか」
司馬亮にそう言われ、諸葛誕は静かに目を瞑る。
そしてしばらくの沈黙があったが、やがて観念したようにその口を開いた。
「司馬昭という男は必ずこののち魏王朝を滅ぼすことになる。そう確信したゆえ、兵を挙げた」
しかし諸葛誕のその言葉を、すかさず胡奮が一笑に付す。
「何を馬鹿な。杞憂に過ぎん」
すると諸葛誕は語気を強め否定した。
「杞憂にあらず。司馬昭は必ず魏王朝を滅ぼす。これは本人の意思とは関係なくだ。周りがそれを望む。そして望まれれば、司馬昭という男はそれに応えてしまうだろう。奴は……そういう男だ。司馬家は力を持ちすぎ、逆に曹家は力を失い過ぎた。手遅れになってからでは遅い。私がこの流れを止めねばならない。それこそが魏の臣たる者の責務であると、そう思い挙兵した……」
曹家の衰退は顕著であり、一部では司馬昭が魏帝に代わり皇帝になるべきだという声が上がっているのも事実であった。
そして胡奮自身もまたそんな風に考えたことがある。
これには胡奮も何も言えなくなってしまった。
諸葛誕はさらに言葉を続ける。
「だが、結果として私は司馬昭の天下を阻むことは出来ず、ただ多くの兵たちを死なせただけ。無用な乱と司馬亮は言ったが、確かにその通り。いや、気づいていたのだ。呉に我が子を人質として送ったとき、陛下の軍と戦わなければならなくなったとき……。あの時、私はやり方を間違えたのだと確かに気づいていた。だが、今さら後には引けないと自分に言い聞かせて、目を背けた。自分を騙し、都合の悪いものから目を背け続け、そしてこのざまだ……。ガハッ!」
諸葛誕の口から大量の血が噴き出す。
呼吸が荒くなる。肌はすでに雪のように白くなっていた。
諸葛誕は薄れゆく意識のなか最後の気力を振り絞り、それを言葉にする。
「誰か教えて、ほしい……。私は……どうするべきだっ……た……んだ……」
その小さく掠れた声に答える者は誰もいなかった。
諸葛公休。もがき、苦しみ、その果てに答えを見つけることも叶わず、彼はその生涯に幕を閉じた。