第74話「諸葛誕の乱 ~その4~」
無数の篝火により、煌々と輝く大地。
夜になると魏軍がいかに大軍であるかがより一層明らかになる。
「どうしてこのようなことになってしまったのだろうな……」
城壁からひとり魏軍を見下ろしていた諸葛誕は思わずボソッと呟いた。
大義のため立ち上がった。奸臣・司馬昭から魏帝を救う。それこそがこの挙兵の目的であったはずだ。
にもかかわらず、今眼前に広がる軍勢のなかにその救うべき帝がいる。
司馬昭一派を朝廷に蔓延る卑しき賊だと罵倒しておきながら、自らは魏帝に刃を向けるのか。
「これではまるで私のほうが……」
そこまで口にして、諸葛誕は慌てて首を横に振った。
自分を戒めるかのように、己が拳を強く握りしめる。
「総大将である私が惑うてどうする。どんなに思い悩んだところでもはや後戻りは出来ぬのだ……」
そう言って、城内に戻ろうとした丁度その時であった。
一人の文官が慌てた様子で駆けてきた。
「諸葛誕殿、こんなところにおられましたか! 大変です! 今しがた伝令が到着し、呉軍の朱異殿の軍勢が敗れたとのこと! 城内には既に動揺が広がっております!」
「なに!? 朱異殿は呉軍の要だろう! ……わかった。蒋班、報告ご苦労。すぐに戻る」
諸葛誕は報告を聞くや否や、急ぎ城内に向かった。
その後ろ姿を、取り残された蒋班は冷たい目で見ていた。
「諸葛誕殿、聞こえておりましたぞ先ほどの言葉……。軍を束ねる者が己が行いに疑問を持っているようでは……」
蒋班はこの乱が失敗に終わることを既に感じ始めていた。
諸葛誕の救援に意気揚々と乗り出した呉軍であったが、魏の精強なる将兵たちを前に苦戦を強いられていた。
特に朱異の戦績は芳しからず、幾度も敗戦を重ねていた。
そしてついに朱異は孫綝から呼び出しを受ける。
「朱異殿、危険です。行ってはなりません!」
言われるがまま孫綝の陣へと向かおうとする朱異。それを止めたのは陸抗という若き将であった。
陸抗は、かつて夷陵の戦いで劉備率いる蜀軍を散々に破った孫呉随一の名将・陸遜の息子である。
「おお、陸抗殿か。聞いたぞ。なんでも先の戦では敵将を幾人も討つ大活躍だったとか。流石は陸遜殿のご子息だな。はっはっは!」
そう言って、上機嫌に笑う朱異。
陸抗はそのあまりに呑気な態度に、呆れたように言った。
「今は私のことなどどうでもいいでしょう。もしや、ご自身の置かれている立場が分かっておられないのですか。良いですか、このまま孫綝殿のもとに行けば貴方は……」
「殺される、そう言いたいのだろう?」
「な……! それが分かっていながらなぜ!」
「これだけ敗戦を重ね、多くの兵と兵糧を犠牲にしたのだ。咎を受けるのは至極当然のこと。覚悟はとうに出来ている」
「敗戦の罰というのはただの口実。その実は先の軍議での一件の恨んでのことだとか。つまりは完全な私怨です。むざむざと殺されに行く必要など……!」
熱くなる陸抗に対し、朱異は静かに首を横に振る。
そして、やや間があって再びその口を開いた。
「本当のことを言うとな、私はもう疲れたのだ。其方の父君がご健在だった頃は良かった。だが、そのあとはどうだ。諸葛恪、孫峻、孫綝。権力を握ったのはみな帝をただの飾りとしか思っていない不届きものたちばかり……。陛下も陛下だ。奴らにすべて言われるがまま、抵抗はおろか己が傀儡であることすら自覚出来ていない。もはやこの国はかつて私や父が愛した孫呉ではない。そう思ったら全てがどうでも良くなった……」
そう語る朱異の顔はあまりに悲しげで、陸抗はもはや何も言い返すことは出来なくなってしまった。
黙る陸抗を尻目に、朱異は愛馬にまたがる。そして3歩ほど馬を進めたあと、ふと思い出したかのように立ち止まった。
「陸抗殿。そなたの活躍を聞いたとき、私は久しぶりにこの国に希望を感じた。もしこの孫呉を変えることができる者がいるとすれば、それはおそらくそなたであろうな。」
朱異はそう言い残すと返事を待たず去っていった。
そしてそれが陸抗の聞いた朱異の最後の言葉となる。
陸抗の忠告通り、朱異はその後孫綝によって斬られたのであった。