第65話「蜀帝の憂鬱」
年が変わり、256年。
成都へと帰還した姜維は蜀帝・劉禅に対し、またも北伐を上奏した。
「敵は我らを退け、油断しているはず。今こそ北伐の好機です。さあ陛下、この姜伯約にお命じください。北上し、賊軍を討てと!」
だが、劉禅は首を縦には振らなかった。
そして困ったように隣で控えていた黄皓の方へ目を向ける。
その行動で姜維はすべてを察した。
「陛下、よもや黄皓殿に何か言われましたか!」
「う、ううむ……。それはだな……」
口ごもる劉禅。
それは暗に答えを言っているようなものであった。
憤った姜維は、今にも殴りかかりそうな勢いで黄皓に詰め寄った。
「宦官如きが軍のことに口を挟むな! この奸賊めが! 貴様のような輩が内側から国を滅ぼすのだ!」
黄皓も反論する。
「今の言葉、聞き捨てなりませな! 私が奸賊? 何を馬鹿なことを! 私からすれば無意味な出兵を繰り返す貴殿の方がよほど奸賊だ! 昨年の遠征も、あれだけ大口を叩いといて、結局兵・兵糧・兵器を失っただけで然したる戦果もなし! その上今年も出兵したい? ふざけるのも大概にしてもらいたい!」
顔を怒りで朱に染め、にらみ合う両者。
さすがにこれを放ってはいずれ手が出るだろうと、夏侯覇が止めに入った。
「姜維殿、落ち着かれませ! 陛下の御前ですぞ! 黄皓殿も姜維殿を挑発するような物言いはお止めください!」
その光景を劉禅は黙って見ていたが、やがて深くため息をついた。
両者の喧嘩は何も初めてではない。一年前にも同じような光景を見ている。
劉禅は家臣のまとまりのなさに心の底から呆れていた。
「もう良い。此度の朝議はこれまで。北伐についてはまた日を改めて議することとする。姜維・黄皓の両名は次の朝議までに少し頭を冷やしておけ」
そう言うと劉禅は一人退室していった。
その背中は酷く寂しげであった。
その日の夜。
劉禅は寝室に女性を招き、愚痴をこぼしていた。
艶のある黒髪。整った顔。女性らしく丸みを帯びた身体。
その者はまさに絶世の美女といっても差し支えない容姿をしていた。
それもそのはず。彼女こそ劉禅より一際の寵愛を受けし、張皇后であった。
彼女は、猛将・張飛と夏侯覇の従妹・夏侯月姫の間に生まれた娘で、幼いころから父に似て武芸に通じ、また母に似て聡明であった。
「なるほど、また姜維殿と黄皓殿が……」
「朕にはどうすることも出来なかった。どうすれば良いかわからなかった。もし父上や諸葛亮が生きていれば、そもそもこんなことは起こらなかったのだろうな。朕は己が無力が憎い……」
嘆く劉禅。
それを張皇后は優しく抱きしめ、こう囁いた。
「陛下。己を卑下するのはお止めください。姜維殿が北伐を上奏するのも、黄皓殿がそれを止めるのも、どちらも陛下のことを思えばこそ。皆、陛下のことを慕っているのです。陛下はいつも自分を父君や諸葛亮殿と比べたがりますが、そんなものは無意味です。陛下には陛下にしかない魅力があるのですから」
その言葉に劉禅はわずかに頬を緩ませる。
「ふふ。世辞でも嬉しいな。ありがとう」
「世辞ではありません。本心です。私はいつも思うのです。陛下はもっと自信をお持ちになってもいいと」
「そうだな。そうだよな。はは、不思議だ。其方と話していると、いつも元気が湧いてくる」
劉禅はそう言って皇后の黒髪をそっと撫でた。
皇后は気持ちよさそうに目をつぶる。
「本当にありがとう。君に話してよかったよ」
劉禅は最後にそう囁くと、灯りを消した。
そして二人はそのまま寝具へと倒れた。
翌日。
劉禅は再び主だった将らを集めた。
そして様々な意見が飛び交う中、劉禅はついに決断する。
「姜維に命じる! 大軍を率い、北上せよ! 此度こそ大きな戦果を期待している!」
「御意!」
その言葉に、姜維は勝ち誇った笑みを浮かべ、黄皓は悔しさを滲ませた。
だが、劉禅の言葉にはまだ続きがあった。
「待て姜維。此度は其方の進言を容れたが、朕は黄皓の言うことにも一理あると思っている。そこでだ。この遠征、もし失敗に終われば、朕は其方に相応の罰を与えることにする。もちろん成功すれば褒美は思うがままだが……。それでもこの任、受けるか?」
「もちろんです。元よりその覚悟で進言いたしました!」
「うむ、よろしい! 征け!」
その淀みない答えに、劉禅は満足し、黄皓もまた渋々ではあるが納得した。
かくして先の北伐からわずか1年、再び蜀軍は魏領へと侵攻を開始したのであった。