第64話「羊叔子」
雍州にて魏軍と蜀軍が激しく戦っていた頃、鍾会は司馬昭より命を受け、ある人物のもとを訪れていた。
「私は鍾士季と申す者。羊祜殿にお会いしたく参上した」
鍾会が屋敷の前でそう叫ぶと、やがて一人の男が姿を現す。
男は恭しい態度でこう言った。
「申し訳ございませぬ。我が主はいま誰とも会う気はないと、そう申しております。どうかお引き取りください」
「な……!」
鍾会は絶句した。
まさか門前払いをされるとは露程も思っていなかったのである。
「さあ、お引き取りを」
「いやいや待て待て! まだ用件も話してはおらぬではないか! それに私は司馬大将軍からの命で参ったのだ! それを蔑ろにするということはすなわち、大将軍を蔑ろにするということ! 分かっているのか?」
鍾会は大声でまくし立てたが、男は結局最後まで取り合わなかった。
これ以上粘っても無駄と判断した鍾会は渋々退散した。
「ううむ。鍾会殿でも彼の者の説得は難しかったか……。羊叔子、味方となればどれほど心強かったことか……」
鍾会より事の次第を聞いた司馬昭は、殊の外残念そうに呟いた。
司馬昭が鍾会をわざわざ派遣したのは、秀才の誉れ高い羊祜に出仕を促すためであった。
しかし羊祜という男は、どうやら人に仕えて功を立てることにあまり興味がないようで、以前にも曹爽から仕官を求められたことがあったが、それを断っている。
そのため司馬昭もそこまで過度な期待はしていなかったのだが、しかし実際に断られるとやはり辛いものがあった。
「鍾会殿、本当にこれ以上の説得は無理なのか? 羊祜の才、やはり諦めるには惜しい」
「はぁ……。その羊祜という男になぜそこまで執心するのか、私には解せませぬが……。まあ、良いでしょう。私もあのような扱いを受けたまま、おめおめと引き下がるわけにはいきませんし、一つ策を講じましょう」
その鍾会の言葉に、司馬昭の顔が一気に明るくなる。
鍾会は言葉を続けた。
「ですが、この策には陛下の協力が必要不可欠。陛下との交渉は司馬昭殿にお任せします。司馬昭殿から頼まれれば流石の陛下も否とは言えぬでしょう」
「わかった。早速謁見を申し出てみよう」
かくして司馬昭と鍾会は動き出した。
すべては羊祜を仕官させるためであった。
司馬昭より突如謁見を求められた魏帝・曹髦は初め難色を示した。
それもそのはず、先帝は司馬昭の兄・司馬師によって廃された。いまやその権力は皇帝をも凌ぐと言われる司馬一族を好意的に思えというほうが無理な話である。
しかし、下手に逆らいでもすれば、何をされるか分かったものではない。曹髦は渋々拝謁を認めたのだった。
「司馬子上、謹んで陛下に拝謁いたします」
「うむ。面を上げよ。して、用向きは?」
曹髦に言われ、司馬昭は顔を上げる。
そしてこう言った。
「陛下、羊祜という在野の士はご存知でしょうか。上党太守・羊衜の息子です。彼の者は兵法に通じ、また詩をこよなく愛する文化人でもあるとか。このような人材をいつまでも野に埋もれたままにしておくのはあまりにも惜しいことです。それゆえ、陛下にお仕えするよう使者を送ったのですが、残念ながら断られてしまいました。そこでその者を登用するのに公車を用いたく、その許可をいただけぬでしょうか。公車で出迎えられれば流石の羊祜も出仕を拒めないはずです」
公車とは皇帝の車のことで、当然それに迎えられるというのはとても名誉なことである。
しかし曹髦は、すぐには首を縦に振らなかった。
「ううむ。羊祜という男の噂、もちろん朕も知っておる。しかし、公車か。何もそこまでする必要があるだろうか……」
「陛下。かつて漢の霊帝は、皇甫嵩将軍を公車で迎え、出仕させました。その後の将軍の活躍は陛下もご存知の通りです。羊祜の智勇、決して皇甫嵩将軍に劣りはしませぬ。この司馬子上が断言いたします。ゆえに陛下、どうか公車での出迎えをお許しください」
司馬昭はそう言って深々と頭を下げた。
大将軍にそこまでされては曹髦も折れるしかなかった。
翌日、公車で迎えられた羊祜はようやく出仕した。
「羊叔子と申します。我が智謀、これよりは陛下のため捧げましょう」
その立ち居振る舞いは気品に満ちており、整った容姿も相まって、一瞬にしてその場にいた皆の目を奪った。
この者こそ、のちに天下平定の立役者となるのだが、今はまだ誰も知る由がなかった。