第63話「狄道の戦い ~後編~」
「ううむ。まさかここまで手こずるとは。もっと楽に攻略できるものと思っていたが……。」
蜀軍総大将・姜維は幕舎で一人頭を抱えていた。
現在蜀軍は王経の守る狄道城を包囲している。
野戦で大勝したことにより、将兵らの士気は高い。狄道城の陥落も時間の問題だろう。
姜維を含め、蜀軍の誰もがそう思っていた。だが。
「報告します! 夏侯覇殿の部隊は雲梯と井闌を用い、城内への侵入を試みましたが失敗! 兵器はすべて壊され、死傷者も多数とのこと!」
その伝令兵は前線の様子を伝え終えると、礼をして足早に去っていった。
そしてそれと入れ替わるように、また別の伝令兵が駆けこんでくる。
「報告! 張翼殿率いる衝車部隊、壊滅しました! 将軍も肩に矢傷を受けましたが、命に別状はないとのことです!」
彼もまた去り、幕舎には再び姜維一人となった。
「くそ!」
目の前にあった机を姜維は思い切り蹴り上げた。
それは夏侯覇と張翼に対して向けたものではない。自分へ向けたものだ。
打開策の一つも思い浮かばず、結果味方を危険に晒した自分への怒りであった。
蜀軍はいまだ狄道城攻略の糸口を掴めずにいた。
その日の夜。
蜀軍の趙統・趙広兄弟は、姜維からの命令で狄道城の偵察へと向かっていた。
二人は蜀の英雄・趙雲の息子で、姜維からの信頼も厚い。このような重大な任務を任されたのもそのためであった。
兄弟ははじめ夜陰に乗じて城に近づこうと試みた。しかし、夜にも拘わらず、見張りの兵は多く、容易に近づけそうにない。
そこで二人は、城の近くにある山へと向かった。その山頂からならば、城を見下ろすことが出来るのではないかと考えたのである。
「兄上。どうやら俺たちよりも前にこの山に来た者たちがいたようですね。足元を見てください」
趙広が異変に気付いたのは山を登り始めて少し経った頃のことだった。
確かに地面には無数の足跡があり、それに混ざって馬のひづめの跡のようなものも確認できる。
「ここまではっきりと残っているということはこの者たちが通ってからそう時間は経っていないはずだ。だが、こんな夜更けにこの大人数とは妙だ。まさか……」
趙統はやがて一つの結論にたどり着いた。
彼は急ぎ道を引き返した。
困惑した様子で弟も続く。
「兄上、一体どうしたのです? 偵察は?」
「それどころじゃなくなった。良いか、あれはおそらく魏軍のものだ。気づかぬうちに援軍が到着していたのだ。奴らはこの夜陰に乗じてこの山頂に陣を張るつもりなのだろう。もしそうなれば、我が軍の本陣が危ない……!」
果たして、趙統の予想は当たっていた。
その地面に残された無数の足跡は、鄧艾率いる魏の増援部隊のものだったのである。
趙統・趙広は本陣へと帰還すると、すぐさま山で見たものを姜維に報告した。
「それはまずい! 急ぎ諸将に伝令を送らねば!」
もはや魏の増援部隊を止めることは不可能。
そう考えた姜維はこのことをあらかじめ諸将に伝えておくことで動揺を抑えようとした。
しかし、一足遅かった。
魏の増援部隊はすでに山に陣を張り終えており、そのことは全軍に広がっていたのである。
こうなってはもはや姜維に残された道は一つしかなかった。
「全軍に伝えよ! 撤退だ!」
それは姜維にとって苦渋の決断であったことは言うまでもない。
かくして、蜀軍は局地戦で大勝を収めながら、成都へと撤退した。