第61話「狄道の戦い ~前編~」
洛陽へと帰還し、魏帝より大将軍に任じられた司馬昭は、正式に兄の権力を引き継いだ。
しかし、それはあくまで表面上でのこと。
当然将たちの中には彼の実力を疑問視する者も多くいた。
そんな中、蜀の姜維が大軍を率いて攻めてきたとの報がもたらされる。
司馬昭はすぐさま主だった将を集めると、軍議を開いた。
「みな聞いていると思うが、蜀の姜維が凝りもせずにまた攻めてきた。陳泰・王経らが現在食い止めているが、敵の勢い凄まじく予断を許さぬ状況だ。そこで大規模な援軍を派遣することにした」
司馬昭がそう言うと、彼のもとに将たちの注目が一斉に集まった。
皆、この戦で見極めようとしているのだ。司馬子上という男の真価を。
いままで父や兄の後ろをただついてきただけの昭にとって、これは初めての経験であった。
緊張で吐き気が込み上げてくるが、それをぐっとこらえる。
(落ち着け俺。冷静になれ、余裕をもて。大丈夫、大丈夫だ)
そう心の中で自分に言い聞かせ、小さく深呼吸をする。
そして口を開いた。
「蜀軍の攻めてきた雍州西部は山岳が多い。ゆえに援軍の編成は騎兵でなく歩兵を中心とする。指揮は、戦経験豊富な叔父上と、先の戦で功績のあった鄧艾殿の両名に頼みたい。よろしいか?」
「うむ、承知した」
司馬昭からの指名に、叔父の司馬孚は快く頷いた。
一方の鄧艾も最初驚いた表情を見せたが、異存はないようで、恭しく礼をした。
「こ、このような、た、大役を任せていただけるとは、き、き、きょ、恐縮です。つ、つ、謹んで、は、拝命いたします!」
しかし、これを良しとしない者もいた。
鍾会である。
「司馬昭殿、貴殿は鄧艾殿を先の戦で功績のあったとおっしゃったが、功績で言えば軍師を務めた私の方が上のはず。なにゆえ私ではなく、鄧艾殿を指名するのか。悪いことは言いません。この私を援軍の大将とされるべきです。私が部隊を指揮すれば、勝利は間違いなし。蜀軍程度に後れを取ることは絶対にありません」
鍾会はそう言って、鄧艾を睨みつけた。
一方の鄧艾は困ったように頭を掻くだけ。特に何か言い返すようなこともなく、判断はすべて司馬昭に任せるようであった。
「確かに先の戦での鍾会殿の活躍は素晴らしかった。魏にはかつて荀彧殿、荀攸殿、郭嘉殿、賈詡殿、程昱殿といった天下に名を轟かせし名軍師たちが多くいたが、鍾会殿の智謀は彼らに勝るとも劣らないだろう。だからこそ、貴殿には他の重大な任務を任せたい。そちらは鍾会殿でなければ出来ない仕事だ」
「ほう……? この私でなければ出来ない仕事とな?」
鍾会は智謀こそ優れるが、しかし単純な男であった。
その司馬昭の言葉に機嫌を良くした鍾会は、あっさり鄧艾の出陣を認めたのである。
「ほかに何か意見のある者はいるか。なければ軍議はこれにて終わりとする」
かくして軍議が終わると、司馬孚と鄧艾の二人はすぐさま戦支度を始めた。
そして二日後の朝、10万の精鋭たちが蜀軍を討つべく、都を出発した。
一方そのころ、雍州西部では魏軍と蜀軍による激しい戦闘が繰り広げられていた。
征西将軍・陳泰は、要所である狄道の防衛を王経に任せ、自らは陳倉へと向かった。
しかし、王経はあろうことか「守りに徹せよ」という陳泰からの命令を破り、城から出撃、結果魏軍と戦闘になったのである。
「ふん、姜維など恐るるに足らず! 蜀の弱兵どもに格の違いを教えてやれ!」
王経の勇ましい号令が戦場に響き渡る。
魏軍の将兵たちは雄たけびをあげ、蜀軍に突撃した。
「俺は陳泰のような弱腰とは違う。ここで蜀軍を破り、そのまま姜維の首を獲るのだ。さすれば俺は……ぐふふふふふ!」
早くも勝利した後のことを想像し、ニヤける王経。
しかし次の瞬間、王経の顔から笑顔が消える。
「報告! 前線部隊が壊滅寸前です!」
「な、なに!」
気が付けば、前線の味方たちはすでに散り散りとなっており、敵将に奥深くまで斬りこまれていた。
「我が名は夏侯仲権! 貴様の首、もらうぞ!」
「ひ、ひいい! いつの間にこんなところまで! 撤退だ! 全軍撤退せよ!」
迫りくる夏侯覇の気迫に完全に戦意をくじかれた王経は、慌てて馬首を巡らせた。
彼は完全に混乱状態に陥った配下たちを見捨てると、わずかな供だけを連れて命からがら戦場を離脱した。
王経は無事城に戻ることが出来たが、この戦いで兵のほとんどを失った。後でこのことを聞いた陳泰が激怒したのは言うまでもない。