第59話「子元、許昌に死す」
毌丘倹・文欽の反乱を見事鎮圧した司馬師は、諸葛誕に寿春の守備を命じると、自らは都へと引き上げた。
国のため、天下のため、まだ為さねばならぬことは山ほどある。司馬師は行軍を急いだ。
彼の左目には、血が滲み朱に染まった布が巻かれていた。
馬が歩を進める度、顔全体に激痛が走る。それでも彼は進み続けた。
だが、天は彼を見放す。
許昌。かつて曹操が漢の献帝・劉協を擁し、本拠としていた地。
この地で司馬師は高熱を発し、倒れた。
司馬昭が急ぎ駆け付けると、そこには寝具に横たわった兄の姿があった。
その変わり果てた姿に思わず言葉を失う。
「驚いたか昭。病のことはお前にも伏せていたからな……」
司馬師は横になったまま静かに昭に語り掛けた。
弱々しく張りのないその声は病の重さを十分に物語っていた。
「実はな、出陣前に目の持病の手術をしていたのだ。だが戦の最中、敵から奇襲を受けたときにその傷口が開いてしまった」
「なっ、なぜそのことを伝えてくれなかったのです」
「伝えればお前は動揺したはずだ。それにどこに敵の間者が潜んでいるかもわからん。すべては迅速に戦を終わらせるためだ」
「でもそれで兄上が倒れちゃ意味がないじゃないですか……。兄上は曹魏にとってなくはならない御方なんですから」
司馬昭からそう言われ、司馬師は口をつぐむ。
そして少しの間があって、小声でこう囁いた。
「曹魏……。果たしてそれにどれほどの価値があるのだろうな昭」
そのあまりに不穏な言葉に司馬昭は一瞬耳を疑った。
「兄上、どういうことです。まさか……」
「冗談だ。真に受けるな」
そう言って、司馬師は笑う。
釈然とはしないが、司馬昭もそれから深くは尋ねなかった。
その後二人はしばらく思い出話に花を咲かせ、穏やかな時を過ごした。
司馬師の容体が急変したのはその日の晩のことであった。
再び急ぎ駆け付けた司馬昭に師はこう告げた。
「私には男子がいない。故に後のことはすべてお前に委ねる。昭、良いか。人の上に立つ者には時に非情さも求められる。私と違って優しいお前は、おそらく近いうち葛藤することになるだろう。だが、お前は優秀だ。きっとそれを乗り越えられると信じている」
「ありがとうございます。この司馬子上、必ずや兄上の期待に応えて見せます」
昭は込み上げてくる涙を必死にこらえ、深々と頭を下げた。
それを見て、師は安堵の表情を浮かべる。
「これで安心して逝ける……」
その言葉を最後に、やがて師の身体は動かなくなった。
魏の大将軍・司馬師。偉大な父の跡を継ぎ、その並外れた智勇で魏を支えた名将。
彼は弟に後事を託し、この世を去った。享年48。毌丘倹・文欽の乱の同年、255年のことである。