第50話「東興の戦い ~後編~」
魏軍本陣。
芳しくない戦況に顔をしかめる司馬昭のもとへ、さらに呉軍本隊到着の報がもたらされる。
「くっ……! 間に合わなかったか……! 前線部隊に伝えよ! 一度城攻めを中断し、敵本隊からの攻撃に備えろとな」
司馬昭はそう言うと、前線を指揮する諸葛誕と胡遵に向け伝令兵を放った。
ここは一度部隊を下げ、敵の出方を見るべきだと判断したのだ。が、しかし。
「伝令! 前線部隊、敵の急襲を受け苦戦中! 何卒救援を……!」
なんと司馬昭の指示が前線へ行き届くよりも先に、呉軍が攻撃を仕掛けてきたのである。
この敵の迅速さには流石の司馬昭も舌を巻くほかなかった。しかし、そう驚いてばかりもいられない。
「韓綜殿は諸葛誕殿のもとに、桓嘉殿は胡遵殿のもとへそれぞれ兵3000を率い向かってくれ! 貴殿らの武でこの戦況を打破するのだ!」
司馬昭は二人の将に兵を預けると前線の救援へ向かわせた。両人とも猛将として知られている。
二人は威勢よく応えると馬に乗り、前線へと駆けて行った。その後ろ姿はとても頼もしく思えたが、しかしこの判断は誤りであったと司馬昭は後で後悔することになるのだった。
「む? 雪か! はっはっは! 天はわしらの味方らしいぞ」
静かに舞う氷の結晶を見て壮年の将はニヤリと笑みを浮かべた。
男の名は丁奉。字を承淵という。
彼の率いる部隊は諸葛恪率いる本隊とは途中で別れ、戦場を大きく迂回する形で行軍していた。
「戯れはよしてくださいよ兄上。雪が積もれば我らの進軍速度は大幅に落ちます。そうなれば諸葛恪殿の策が成らぬやもしれません。どう考えても天は向こうの味方ですよ」
そう言って丁奉の言葉に苦言を呈したのは顔の整った年若い将であった。
彼の名は丁封。丁奉の弟である。
「我が弟でありながらなんと思慮の浅い。考えてみよ。敵は東興での城攻めで疲れ切っておる。それに加えてこの寒さだ。そんな時、敵陣では何が行われると思う?」
「まさか、酒宴ですか?」
「その通り。疲れをとるにも、暖をとるにも酒はもってこいだ。敵の総大将・司馬昭は父や兄と違い、温和で優しい人柄で周りから好かれていると聞く。そんな男が寒さで震える兵士たちを見捨てられると思うか?」
「た、確かに……。なるほど敵が酒宴の最中であれば、我らの奇襲もより成功しやすくなる、と」
「そういうことだ。それにな、行軍の速度が下がるっていったが……」
丁奉はそこで一度区切ると、馬を止めた。
後ろに続く兵士たちもまた歩みを止める。
丁奉は兵士たちに向かって言った。
「全員鎧は脱げ! これより速度を速めるぞ! なに心配いらん! 走れば寒さなど気にはならん!」
当然兵たちはその滅茶苦茶な命令に困惑したが、しかし丁奉が自ら鎧を脱ぎだすと皆それに従った。
「ほれ、後はお前だけだぞ」
「しょ、正気ですか兄上」
「正気だとも! 鎧を外せば身体は軽くなり進軍速度は早まるだろう! それにガチャガチャと音を鳴らして歩けば、我らの存在を敵に感づかれる可能性もある! さ、脱げ!」
「はぁ……。しかたないですね」
こうして最後に丁封が渋々鎧を脱ぎ、再び彼らは行軍を再開した。
呉軍の策。それは諸葛恪隊が魏軍の注意を引いている間に、丁奉隊が大きく戦場を迂回し、魏軍本陣に奇襲をかけるというものであった。
「何事だ!」
「はっ! 敵の奇襲でござる! 」
果たして、呉軍の策略は見事成功を収めた。
丁奉の予想通り酒宴を開いていた魏軍は奇襲への対応が遅れたのである。
また、韓綜や桓嘉といった猛将たちを前線へと送っていたのも仇となった。兵数では勝っていたはずなのに、みるみるうちに魏軍本隊は削られていった。
「やられた……! こうなれば合肥新城まで退き、態勢を立て直すほかないか!」
司馬昭の判断は早かった。
彼はもはやこの戦に勝ち目がないことを悟ると、いち早く全軍に撤退を指示したのだった。
だが、この敗戦の代償はあまりに大きかった。司馬昭、諸葛恪、胡遵ら大将格こそ無事であったものの、韓綜や桓嘉をはじめとする多くの将兵がこの地で命を落としたのである。
こうして東興の戦いは魏軍の大敗という形で幕を閉じた。