第46話「夏侯覇出奔 ~後編~」
身の危険を感じて魏より亡命した夏侯覇は、長い旅路の末にようやく蜀の都・成都に到着していた。
そして息をつく暇もないまま、蜀帝・劉禅とはやくも謁見することとなった。
「陛下のご出座である!」
年若い文官が声を張り上げると、やがて冕冠を頭に被った一人の男が姿を現した。
その男は色白で整った顔立ちをしていた。口元に蓄えている髭はよく手入れされており、上品さを醸し出している。
所作の一つ一つも優雅で、その美しさに夏侯覇は思わず息をのんだ。
(あれが蜀帝・劉禅……。先代・劉備の足元にも及ばぬ暗愚という噂だったが、とてもそうは見えぬな)
そんな感想を夏侯覇は抱かずにはいられない。
「今日も皆息災のようでなによりである。さて、其方が魏より降ってきたという将か」
玉座に腰かけた劉禅は、柔らかな物腰で夏侯覇に尋ねた。
夏侯覇は答える。
「夏侯仲権と申します! すでにお聞き及びと存じますが、曹魏では司馬懿が政変を起こし、曹一族に忠を尽くしてきた者たちがことごとく処断されております! 私はその魔の手より逃げてまいりました! 願わくば、この身を蜀漢の末席に加えていただきたく参上した次第!」
それが彼が悩んだ末に導き出した答えであった。その言葉に嘘偽りなどあろうはずがない。彼は魏への未練など、とうに断ち切っていた。
だが、その言葉をすぐに信用するほど蜀帝もお人よしではない。
「夏侯仲権か。確か其方の父は定軍山の戦で我らと戦い、討ち死にしたと記憶している。何故、孫呉ではなく仇であるこの蜀漢を頼ったのか。朕にはそれが不思議でならぬ」
「確かに我が父は蜀との戦で倒れました。ですが、それは戦場でのこと。私とて戦場では多くの蜀の将兵たちを手にかけてきました。特別蜀を恨もうとは思いません。また、我が従妹は蜀に身を寄せているはずです。血縁を頼るは至極当然のことかと存じます」
夏侯覇の従妹・夏侯月姫は200年に劉備の義弟・張飛と結婚していた。
二人の出会いは月姫が遠駆けをしている最中に、狩りをしていた張飛と偶然遭遇したことに始まる。
張飛は見目麗しかった彼女を一目で気に入ると、半ば強引な形で自宅へと連れ込んだ。はじめは抵抗していた月姫であったが、やがて彼女も張飛の逞しさに惹かれていき、次第に自分から求めるようになった。
こうして相思相愛となった二人は、敵国同士の身でありながらその壁を乗り越え、やがて結婚。張飛は221年に部下の造反に遭い、あえなく命を落としたが、月姫はその後も蜀で慎ましく暮らしていた。
「うむ。確かに筋は通っているな」
夏侯覇の言葉に劉禅は納得したように頷いた。
安堵する夏侯覇。だが、家臣の中にはまだ納得のいっていない者がいるようであった。
その筆頭が黄皓という人物であった。
「失礼ながら陛下。私はこの者のこと、信用できませぬ。もしかしたらこれは司馬懿めの策なのではないでしょうか。これは偽りの投降であり、いざ魏との戦になったところで再び向こうへ寝返る手はずになっているやもしれませぬ。狡猾な司馬懿のことです。ありえないことではないでしょう」
「埋伏の毒、か。たしかにあり得ぬことではないな。姜維、お前の意見はどうだ」
劉禅は黄皓の意見に一定の理解を示しつつも、すぐには受け入れず、その隣に並んでいた姜維にも意見を求めた。
黄皓はそれが悔しかったのか、姜維のほうを睨み付けたが、姜維本人は特に気にする様子もなく、己が意見を述べた。
「ハッ! 恐れながら私はこれは司馬懿の策ではないと考えます。政変より日がそれほど経っていない今、奴らは国の外より内に目を向けねばなりません。とてもこちらへ策を仕掛ける余裕などないでしょう。また、夏侯覇殿とは魏にいたときに何度か話したことがありますが、とても誠実な方で信頼に値する人物です。彼は必ずや我らの力となってくれることと思います」
姜維の意見は黄皓とは真逆のものであった。
両者の意見を聞いた劉禅は腕を組み、しばし思案する。
夏侯覇は祈るような心地で蜀帝の言葉を待った。
そして、劉禅は決断した。
「夏侯覇、我々は其方を受け入れよう。見ての通り、貧しくなにもない国だが、これよりはここを故郷と思ってくつろいでほしい。期待しているぞ」
「過分なお言葉痛み入りまする。この夏侯仲権、蜀漢のため命を捧げましょうぞ」
こうして夏侯覇は蜀の一員となった。
彼はのちに強敵として司馬一族の前に立ちふさがることになる。