第45話「夏侯覇出奔 ~前編~」
曹爽、何晏ら逆臣たちはことごとく処刑された。
だが、これを機に曹魏の内に溜まる膿は完全に取り除かなければならない。
司馬懿は曹爽と親しかった者や血縁の近い者を中央へ呼び出すと、それらをことごとく処刑していった。
そして、その中には夏侯玄の姿もあった。
「司馬懿殿、どうか聞いてくだされ! 私は、陛下を亡き者にしようなどと思ったことは断じてありませぬ! また、曹爽殿がそのような計画を企んでいたことも知りませんでした! 本当です!」
そう言って、必死に頭を垂れる夏侯玄。
だが、それを見る司馬懿の目は冷ややかなものであった。
「無駄だ、夏侯玄。いくら口でそう言ったところで、それを証左するものがない以上、私が貴殿を許すことはない。それにな、実のところ貴殿に叛意があったかどうかなどどうでも良いのだ。貴殿は曹爽と従弟の関係にある……。それこそが罪なのだからな」
それはあまりな物言いであった。
夏侯玄は絶望し、がっくりと膝から崩れる。
「ようやく諦めたか。利口だな」
司馬懿はニヤリと笑うと、長子・司馬師に目で合図をした。
司馬師はかねてより司馬懿より渡されていた書状を広げると、これを読み上げた。
「夏侯泰初。貴殿は逆臣・曹爽の血族であり、また、かの者と共に陛下を弑さんと企んだ。これは断じて許されることではない。 よってその罪、死して償うべし……」
司馬師がそう読み終わるや否や、夏侯玄の身体を屈強な二人の兵士が取り押さえた。
夏侯玄にはもはや抵抗する意思はないらしく、そのまま処刑場へ連行されるかに思えた。
だが。
「父上、兄上! お待ちください!」
それを一人の男が遮った。
声の主は司馬懿の次子・司馬昭であった。
「ほう、その顔。不服のようだな昭」
思わぬところからの反対意見に、司馬懿は目を丸くする。
司馬昭は司馬懿の前に出ると、感情的になりながらもその意見を口にした。
「ええ、不服です。俺は興勢での戦いの折、夏侯玄殿に世話になりました。曹爽に疎まれていた俺の代わりに、撤退を進言して下さったり、戦場の経験があまりない俺にいろいろと指南をして下さったりと、俺はこの方から多大な恩義を受けました。少し楽観的でのんびりとしているのが珠に傷ですが、戦場におけるその指揮はとても頼りがいのあるものでした。この方は、これからの曹魏に必要不可欠な人物であると俺は断言できます。どうか命だけは、お助け願えないでしょうか」
だが、すかさずその意見に兄の司馬師が噛みつく。
「甘い。甘いな昭。そのような甘ったれた考えで父上の裁定に口を出したのか。こういったことは徹底してやるべきなのだ。そこに情を挟むなど愚者のすること……!」
「甘い意見なのは百も承知! ですが、こうも簡単に有能な人材を殺してしまえば、やがてこの国に人はいなくなります!」
めったに兄弟喧嘩などしない二人であるが、このときばかりは互いに意見を曲げようとはしなかった。
それを黙って見ていた司馬懿であったが、やがてため息をつくと二人を制した。
そして決断する。
「わかった昭。そこまで言うのなら、此度はお前の言う通りにしよう。夏侯玄、貴殿の命は取らぬ。昭に感謝するのだな」
こうして夏侯玄は極刑を免れた。
夏侯玄はその後、征西将軍の地位は剥奪されたものの、代わりに大鴻臚に任じられた。
彼は司馬昭の恩情に深く感謝し、政務により一層励むことを誓ったのだった。
だが、この夏侯玄の処罰は思わぬところに影響を与えた。
「夏侯覇様、大変です! 司馬懿様の命により、夏侯玄様が征西将軍より外されました! 代わってその任には郭淮様が就くそうです!」
「なに! まさか夏侯玄殿が曹爽殿の従弟だからか! おのれ司馬懿、これを機に曹家と血縁の近い我ら夏侯家も一掃するつもりか……! では、まさか次は私か……!?」
夏侯玄と同族である夏侯覇は、自分の身に危害が及ぶことを恐れた。
また、新たに征西将軍に任じられた郭淮とは以前より不仲である。
夏侯覇はしばし悩んだのち、決意を固めた。
「よし、決めたぞ! 私は蜀へと亡命する! こんな国、もういられん!」
こうして夏侯覇は身支度を整えると、その日の夜には成都へ向け出発した。
「夏侯覇殿が出奔!? なんでまた……。蜀は夏侯淵殿の仇だろう……」
夏侯覇が蜀へと逃れたことを知った司馬昭は大いに驚愕した。
それもそのはず、夏侯覇の父・夏侯淵は蜀との戦いで命を落とした。いわば蜀は夏侯覇にとって仇のはずである。
その仇を頼らなければならないほど、彼の心を追い詰めたのは一体何なのか。司馬昭にはまるで理解できなかった。
そんな疑問に答えたのは、傍で茶を汲んでいた妻であった。
「義父上は曹爽と血縁が近い夏侯玄殿を処罰しました。それが同族である彼を追い詰めたのでしょう。次は自分の番かもしれない、と」
司馬昭の妻・王元姫はそう言うと、司馬昭に出来立ての茶を出した。
司馬昭は有り難くそれを受け取ると一口すする。そして、「美味い」と短く感想を言うと、さらに話を続けた。
「しかし、夏侯玄殿の処罰はそれほど重くはない。もっとも、俺がそうしてほしいと嘆願したんだが……。果たしてそこまで危機感を募らせるものだろうか……」
「たしかに子上殿のおかげで夏侯玄殿の命は助かりました。ですが、夏侯覇殿はそもそも夏侯玄殿が死罪であったことすら知りません。彼にとっては、征西将軍の解任ですら十分に重い処罰に思えたのでしょう」
「なるほどな……。ん? だとすると、もしかしたら……」
司馬昭は王元姫との会話であることに気づくと、急いで屋敷を出た。
その顔はひどく青ざめていた。
司馬昭が向かったのは夏侯玄の元であった。
もし夏侯覇が夏侯玄の事情を知らないのであれば、夏侯玄が司馬氏を恨んでいると考えるはずである。
だとすれば、夏侯覇は夏侯玄に接触を試みたはずだ。そしてこう持ち掛けるだろう。ともに蜀へ逃げないか、と。
「夏侯玄殿! 夏侯玄殿はおられるか!」
「はい、ここに。どうしたのです司馬昭殿。そのように慌てて……」
息を切らす司馬昭を、夏侯玄はきょとんとした顔で出迎える。
司馬昭は自分の息が整うのを待って、問いかけた。
「夏侯玄殿。もしや夏侯覇殿の使者がここに来たのではないか」
「ええ、来ましたよ。昨晩にね。ですがもう、司馬懿殿に引き渡しました」
「引き渡した……?」
夏侯玄曰く、前日の夜に夏侯覇からの使者が手紙を携えて屋敷にやってきたのだという。
手紙の内容は司馬昭の予想通り、蜀への亡命を誘うものであった。
だが、夏侯玄はすぐさまその使者を斬り捨てた。そして、さらにその首と手紙をいち早く司馬懿に渡したのだという。
「それで、父上はなんと……」
「大儀である、と」
その言葉を聞いて、司馬昭は胸をなでおろした。
夏侯玄は司馬昭が見込んだ通りの人物であった。
だが。
(兄上の言っていたやるならば徹底的に、とはこういうことか。もし夏侯玄殿が誘いに乗り、蜀へと亡命していれば、一大事だった……)
もし、夏侯玄を殺していれば、そもそもこのような心配は起こらなかったかもしれない。
こういった心配事を少しでも減らしておくべきだと、兄・司馬師は言っていたのだ。
しかし、それでも司馬昭は心から兄の考えに賛同することは出来なかった。