第44話「正始の変 ~後編~」
司馬懿の病がことのほか重いことを李勝から聞いて以降、曹爽は屋敷で毎晩のように酒宴を開いていた。
もはや自分の立場を脅かす存在はいない。その事実が彼の精神を弛緩させた。
「何晏、明日はかねてより申していたように、陛下と先帝の陵を参拝した後、巻狩りに行く。準備、抜かりはないな」
「もちろんです曹爽様。しかし、でしたらそろそろお休みになられたほうがよいのでは? あまり深酒しすぎると明日に響くかと」
「なに、心配するな。私ほどの男になるとな、いくら酒を飲んでも酔わんのだ」
何晏の心配をよそに、女官にさらに酒を注がせる曹爽。
それを一気に呷って飲み干すと、顔を朱に染め、大声で叫んだ。
「者ども、今日はとことんまで飲むぞ! 途中で帰ることも寝ることも許さん! これは大将軍としての命令であるぞ! ギャハハハハ!」
結局、その酒宴は翌早朝まで続いた。
曹爽が二日酔いの状態で出立したのはいうまでもない。
曹爽が曹芳とともに都を発ったのを確認すると、司馬懿は速やかに動き出した。
武装した兵らを広場に集め、高らかに号令したのである。
「皇太后陛下より、奸臣・曹爽とその一派を一掃しろとの命が下った! よって、これより我らは宮城を占拠する! 曹魏の忠臣たちよ、この司馬仲達に続け!」
これは決して突発的なものではない。かねてより周到に準備されたものであった。
世間は、曹爽の排斥と司馬懿の復活を強く望んでいた。だが、いくら世間が望んでいたとしても、大義がなくてはただの簒奪者となってしまう。
そこで司馬懿は一計を案じた。
まずはじめに、司馬懿は李勝の見舞いに対し重病の振りをした。曹爽は単純な男である。司馬懿が己の立場を脅かす存在ではなくなったと確信するや否や、連日酒宴を開くようになり、司馬懿のことなどまるで警戒しなくなった。
こうしてある程度自由に動けるようになった司馬懿は、密かに先帝・曹叡の妃である郭太后に接触し、曹爽征討を上奏した。
彼女はこれを快諾し、こうして司馬懿は曹爽を排する大義名分を得た。
そして曹爽が都を留守にし、宮城の守りが薄くなった今、ついに事に及んだのである。
司馬懿軍の勢いは凄まじかった。瞬く間に宮城全域を制圧、そして宮城に残っていた曹爽一派をことごとく捕縛するに至った。
「司馬懿! 貴様、病というのは偽りであったのか! 我らを謀るとは小癪な!」
「離せ! 我らにこのようなことをして、ただで済むと思うなよ!」
口々に恨み言を吠える曹爽一派の者たち。
司馬懿はその者たちを一瞥し、鼻で笑うと、司馬師に命じた。
「こいつらもまた曹爽と同罪である。牢に連れていけ。抵抗するようなら斬って構わん。どうせこれからの魏にこのような無能どもは必要ない」
「ハッ!」
縄で繋がれ牢へと連れていかれる彼らの姿はあまりに惨めであった。
と、その時。慌てた様子で兵が駆け込んできた。
「報告します! 曹爽、我らの動きに気づき、伊水の南に陣を張った模様! いかがいたしましょう」
「陛下の身柄が向こうにある今、安易に刃を向けることはできぬ。曹爽に降伏を求める使者を送れ。『命を保障する』とでも言っておけば、食いついてくるであろう。どうせ奴に戦を起こす覚悟も勇気もない」
果たして、司馬懿の予想は当たった。
曹爽は「裕福な暮らしが出来るのならば」と、あっさり降伏を受け入れたのである。
が、司馬懿には曹爽を許す気など毛頭なかった。
「曹爽は陛下を弑し、自ら皇帝にならんと画策していた。相違ないな?」
「は、はい! 宴会で酒が回るとよく言っていました。この曹昭伯が皇帝となる日は近い、と……」
司馬懿はこの曹爽一派の者の自白を根拠に、曹爽と何晏を謀反人として処刑した。
かくして、曹爽の野望は潰え、魏の実権は司馬一族が握ることとなった。これが後の世に言う正始の変である。




