第43話「正始の変 ~中編~」
曹爽と何晏が宮廷内で専横を極め、悪政を働くなか、司馬懿は自宅で療養に勤しんでいた。
寝具に横たわり、時折せき込むその姿は、もはやただの病弱な老人にしか見えない。かつての覇気ある面影など微塵も感じられなかった。
「御無沙汰しています。李公昭です。司馬懿様が病に伏せられたと聞き、見舞いに参上仕りました」
ある日、そんな司馬懿の元を一人の男が訪ねてきた。
李勝。字を公昭という。まだ若く、聡明そうな顔立ちのこの男、曹爽の取り巻きのうちの一人である。
本来ならば警戒するべき相手であるが、しかし司馬懿はこれをあっさり通した。
「よく来てくれたな。近ごろは見舞いに来てくれる者も減ってな。寂しさを覚えていたところよ。あ……えっとすまん、なんと名乗ったか」
「李公昭です」
「ああ、そうだそうだ。李勝殿か。たしか以前に宮廷で何度かお会いしたな。いや、気を悪くさせたなら申し訳ない。近ごろ途端に物忘れが激しくなってな……」
司馬懿は申し訳なさそうに頭を下げる。
李勝は慌てて顔を上げるよう求めた。
「いや、本当にすまぬ。お詫びに先日手に入っためずらしい茶でも御馳走しよう」
司馬懿はそう言うと、ゆっくりと身体を起こそうとした。
しかし、一人で起き上がることはできず、結局李勝と従者に手伝ってもらった。
「すまぬな李勝殿。まったく老いたものよな。自分が情けなくなってくるわ」
「いえ、なんのこれしき。他に何か私めに手伝えることはありましょうや」
李勝の優しい言葉に司馬懿は顔を綻ばせる。
「そうだな……。では少し私の話し相手になってはくれぬか。春華が死んでからというもの話し相手に困っていてな」
春華というのは、司馬懿の正室・張春華のことである。彼女は、司馬懿が隠居する少し前に病で亡くなっていた。
「亡き奥方様の代わりなど私ごときでは務まらないでしょうが、わかりました。精一杯努めさせていただきます」
その後、二人はしばらくの間他愛のない雑談を続けた。
時折笑い声が聞こえる、そんなのどかな時間が流れていった。
李勝が帰り、しばらくして。
司馬懿の自室には再び訪問者の姿があった。司馬懿の弟・司馬孚である。
「いやはや兄上もなかなかの役者ですな。さきほど宮廷で曹爽殿と李勝殿が並んで歩いているのを見かけましたが、あの顔、喜びを隠しきれていませんでしたよ」
「ほう。奴ら、まんまと騙されてくれたか。まったくこの司馬仲達はいたって健在だというのにな」
司馬懿はそう言うと、ニヤッと笑みを浮かべ、難なく寝具から立ち上がった。
その姿は先ほどまでとは打って変わり、生気に満ち溢れている。
そう、李勝に対する司馬懿の態度はすべて演技であったのだ。
「して兄上、これで奴らに『司馬仲達の復帰はもはや不可能である』と思わせることには成功しましたが……。これよりはどのように動くつもりで?」
「しばらくは様子見だな。まあ、安心しきったあやつらは近いうち必ず隙を見せてくれる。勝負はそのときよ」
司馬懿の脳内に描かれた壮大な計画。それがいま動き出そうとしていた。