第42話「正始の変 ~前編~」
「殿、忍び込んだ賊を捕らえました!」
ある日の深夜、司馬懿の前に縄で縛り上げられた二人の男が連れてこられた。
彼らは、なぜ夜遅くに屋敷に忍び込んでいたのか。その目的はあまりに明白であった。
「誰の命だ。言われたのだろう。この私を殺せと」
司馬懿が低く冷たい声で問いかける。だが、男たちは口を開かない。
「刺客がそう簡単に口を割るはずもない、か。連れていけ」
はなから期待などしていなかった司馬懿はあっさりと詰問を終える。
二人の刺客はそのまま兵たちに連れていかれた。彼らは牢でたっぷりと拷問を受けた後、それでも何も話さなければ殺されるのである。
司馬懿は刺客たちの姿が見えなくなると、大きくため息をついた。
「もう何度目か。この身を狙われるのは」
興勢の役以降、司馬懿が刺客に襲われたのはこれで3度目であった。
いずれも事前に取り押さえることに成功しているが、しかし司馬懿からすればもううんざりといったところである。
「父上、やはり犯人は曹爽でしょうか」
隣に立っていた司馬昭が尋ねる。
司馬懿はこくりと頷いた。
「であろうな。まったく、えらく嫌われたものよ。フフフ……」
そう、笑い声をあげる司馬懿。だが、その眼は笑っていないことに昭は気づいていた。
一方、曹爽の屋敷では。
「ええい遅い! まだか! 司馬懿の首はまだ獲れぬのか!」
曹爽が顔を憤怒で赤く染め、声を荒げていた。
それを曹爽の取り巻きが一人、何晏が諫める。
「曹爽様、落ち着かれませ。まあ、この時間まで連絡が来ないとなりますと、此度も失敗でしょうな」
「何晏! 何を他人事のように! もはや我らには後がないのだ! あの爺がこの国を手中に収めるのも時間の問題! ここで、ここで奴を始末しておかなければ、いずれ私とお前が始末されるのだぞ!」
曹爽は焦っていた。
興勢の役で曹爽の評判は地に落ちた。一方で、司馬懿の株は上がっていくばかり。
焦るなというほうが無理な状況である。
だが、それとは対照的に何晏はいたって冷静であった。
「いまは耐える時です曹爽様。いずれ必ず、司馬懿を追い落とす好機が訪れるはずです」
「いずれとはいつだ! いい加減なことを抜かすでない!」
「いい加減なことではありません。考えてもみてください。司馬懿ももうかなりの高齢。いつまでも表舞台に立っていられるわけではありません」
何晏のその言葉に、曹爽はハッとする。
「そうか! 確かにそうだ! こちらから手など下さなくとも、そろそろ奴は……! ぐふふふふ……」
そして、今度は先ほどと打って変わり満面の笑みを浮かべた。
曹爽という男は至極単純な男であった。
果たして、何晏の予想は現実のものとなった。
247年、司馬懿は高齢と持病の悪化を理由に隠居することを発表したのである。
これを聞いた曹爽が小躍りして喜んだことは言うまでもない。
こうして、曹爽と何晏は益々専横極めていく。