第41話「暗雲」
宮廷内をうつむきながら早足で行く一人の男。
その顔がやたら赤いのは、羞恥によるものか、あるいは怒りによるものか。
彼は歩みを一切止めない。止めてしまえば、聞きたくないことが聞こえてしまう。
「あいつがなんで死ななければならねえんだよ! あいつを殺したのは蜀軍じゃねえ! 曹爽の野郎だ!」
「ああ! 司馬懿様の指揮であれば、こんな被害が出ることもなかった! いや、そもそも負けることもなかったんだ!」
怒り。
「父君は文武に優れた素晴らしい御方であったのに。まさかあそこまで酷いとは思わなんだ」
「あんなのに国を任せていて本当に大丈夫なのか? なんだか不安になってきたぞ」
落胆。
「ねえ、聞いたか? 先の戦での曹爽様の話」
「うん、聞いた聞いた。風で茂みが揺れる音を敵襲と勘違いして落馬したっていう話でしょう? しかも噂では恐怖のあまり失禁までしていたとか……」
嘲笑。
宮廷内に飛び交う言葉の数々。その一つ一つが彼の心を、自尊心を激しく傷つける。
(ちっ! この状況、司馬懿のクソ爺はさぞ愉快だろう! だが、まだだ! まだ私の野望は潰えてはいない! 今に見ていろよ私に楯突くクソ虫ども……!)
その男、曹爽は心の中で毒づくことしか出来なかった。
「どうであった? 曹爽様の采配は? 少しは勉強になったか?」
司馬懿は戦より帰還した司馬昭を自室に呼ぶと、早速尋ねた。
その顔は少し意地悪く笑っていた。父の手に盃があることに気づいた司馬昭は小さくため息をつく。
「父上は普段からあまり性格が良いとは言えませんが、酒を飲むとさらに悪くなられる。ええ、確かに勉強になりましたよ。悪いお手本として存分に」
司馬昭はそう言うと、やがて曹爽の采配一つ一つを挙げていき、そのすべてを非難していった。
自分が指揮官であったならばどうしていたのかも付け加えていく。
「うむ、まあいいだろう」
それを黙って聞いていた司馬懿だったが、全て聞き終わると、満足げに頷いた。
司馬懿ははじめからこれに期待をして司馬昭を従軍させたのであった。
様々な人の采配を見て、そこからいろいろと感じとってほしい。それが司馬懿の思いであった。
司馬懿自身も曹操に出仕して以降様々な者の采配を目にし、そしてそのたびに己が才を磨いていったものである。
「昭よ。ご苦労だった。この戦での経験、決して無駄にするな。戻って存分に休め」
「ええ。そうさせてもらいます」
昭が退出し、司馬懿は部屋に一人となる。ふと窓の外を見つめてみれば、暗雲が立ち込め、雨がぽつりぽつりと降り始めているのが分かった。
「さて、これより魏はこの天気の如く、いやそれ以上か。大いに乱れるだろう。その時、私はいかにして動くべきか」
曹爽と司馬懿。二人の政争はやがて新たな局面を迎えようとしていた。