第39話「芍陂の役 ~後編~」
「ここで敵の援軍とは、また厄介な……」
魏の増援が来着したことを聞き、思わず眉間にしわを寄せたのは呉軍の指揮官・朱然である。
朱然はその的確な指揮で見事樊城を包囲することに成功し、攻略まであと一歩のところまで魏軍を追いつめていた。
もし荊州が呉のものとなれば、三国の均衡は崩れる。それは強大な魏に近年劣勢を強いられてきた呉にとって希望の光となるはずであった。
だが、ここで魏に増援が来たとなると随分と雲行きが怪しくなってくる。そもそも城攻めは攻め手のほうが不利なのである。援軍の到着でそれまで消沈していた樊城の魏軍が息を吹き返すことになれば、呉軍の被る被害ははかりしれない。
朱然の頭の中に『撤退』の二文字が浮かぶ。
樊城奪取に固執し、手痛い打撃を受けるくらいならば、そうそうに退いた方が良いのではないか。
だが、朱然はすぐにその考えを否定した。
「いや、まだだ! まだいける! まだ諦めぬ! そうだ、敵指揮官の名は……!?」
朱然は藁にも縋るような気持ちで斥候に尋ねた。
魏は優秀な人材が豊富ではあるが、だからといって皆が名将というわけではない。もし相手が兵法を知らぬ愚か者であるならば呉軍にもまだ十分勝機があった。
しかし、斥候の口から出たのはそんな淡い期待を打ち砕く無慈悲な言葉であった。
「お、おそらく増援の指揮官は、司馬懿と思われます……」
その瞬間、朱然は膝から崩れ落ちた。
朱然とて呉を代表する将の一人。これまでも戦場で多くの功を上げてきた。
指揮官が並みの将であれば、まだ心が挫けることはなかっただろう。しかし、指揮官が名将と名高い司馬懿とあってはもうどうすることもできない。
半ば放心状態の朱然。そんな彼にさらに追い打ちをかけるような報告が飛び込んできた。
「建業より伝令! 孫登様が、薨御されました!」
孫登とは孫権の子である。
文武に優れ、人柄も明るく、多くの者に愛される、孫呉の後継者として申し分ない男であった。
そんな彼が若くしてこの世を去った。
それは、孫呉にこれから大きな嵐が来ることを暗示していた。
(急ぎ都へ戻らねば。悩んでいる暇などない……)
朱然はようやく決意を固めた。
そして全軍にこう通告した。
「今宵、我らは撤退する。夜陰に乗じ、敵に気づかれぬよう慎重に退くのだ」
一方その頃、司馬懿軍の陣では、二人の若き将が来るであろう戦いの時に備え、鍛錬に勤しんでいた。
「楽綝、ちょっと会わないうちにずいぶんと逞しくなったなぁ! おい、俺と一丁手合わせしようぜ!」
「これから本当の戦いが始まるんだ。その前に体力を消耗してどうする。手合わせは戦が終わってからいくらでもしてやるよ、張虎」
そう言って軽口を言い合っているのは張虎と楽綝。先の公孫淵征伐でも功のあった将来を嘱望される若武者たちである。
二人はこれより始まるであろう呉との戦いに胸を躍らせていた。
戦場で多く功を上げ、やがては父を超える。それが二人の野望であった。
張虎の父・張遼と楽綝の父・楽進は共に『五大将軍』にも数えられる名将である。
父の背中はあまりに大きいが、それでも二人はいつか必ず超えられると信じて疑わなかった。二人一緒ならばどこまででも行けるような、そんな気さえした。
「ま、楽綝の言う通りだわな。まだまだ鍛錬はやり足らねぇが本番でへばっちゃ意味がねえ。ここいらで休憩としよう」
「お、珍しく物分かりが良いな」
ひとまず鍛錬を終え、汗をぬぐう二人。
そして楽綝が何気なく敵陣のほうに目をやったその時。彼はふと違和感を覚えた。
「おい、張虎。なんか敵の様子がおかしくないか。なんというか、やけに慌ただしい感じだ」
「あん? そんなん俺らが姿を現したからに決まってんだろ。思わぬ援軍の登場にあいつら驚いてんだよ。孫呉は臆病者の集まりだって親父もよく言ってたぜ」
張虎はそう言って特に気にせず笑っていたが、楽綝はどうにも引っかかるものがあった。
結局、楽綝は悩んだ挙句司馬懿にそのことを報告した。
報告を聞いた司馬懿はしばらく思案したのち、ニヤリと笑みを浮かべ、楽綝のことを褒めたのだった。
「父上、本当に呉軍は退くのですか? 楽綝の報告から考えると、こっちを攻めようとしてるって考える方が自然じゃ……」
「いや、我らが到着したことでこちらが圧倒的に優勢となった。そんな中で下手に動けば命取りになることくらい孫呉の連中にもわかるはずだ。奴らが今できることはせいぜいこちらを牽制する程度。大掛かりに攻めるとすれば、援軍を待ってからだろう。そんな状況でこちらにもわかるほど慌ただしく動いてたとなると、それはもう撤退しかあるまい。大方、指揮官が戦意をなくしたか、あるいは本国でなにかがあったか……」
自信を持って子の問いに答える司馬懿。
しかしながら司馬亮はいまだ不安であった。それもそのはず、彼はこれが初陣。戦場のことなどまるで知らないのだ。
もしもこの判断が間違っていたらどうなってしまうのか。敵に囲まれ、初陣の身でありながら討ち取られる自分の姿を想像し、思わず顔を青くする司馬亮。
だが、そんな司馬亮の心配ははずれ、やがて斥候が呉軍が退いていったことを伝えた。
「夜陰に紛れたつもりなのだろうが、その大軍勢で隠し通せるはずがないだろう。全軍、敵を追撃するぞ!」
司馬懿の号令と共に魏の精鋭たちが一気に呉軍の尻尾に噛みついた。
まさか自分たちの撤退が相手にバレているとは思わなかった呉軍はおおいに混乱した。
やがて始まったのは魏軍による一方的な蹂躙であった。
こうして荊州での戦いは魏の大勝利に終わった。
また、揚州のほうも王凌の奮戦で見事呉軍を退かせることに成功した。
しかし、この出来過ぎなほどの戦果が、司馬懿と曹爽の争いをさらに激化させることになるのであった。