第38話「芍陂の役 ~前編~」
公孫淵征伐より帰還した司馬懿は戦勝を報告するべく、宮廷に足を運んでいた。
だが、いくら待てど皇帝・曹叡が姿を現すことはなく、司馬懿が内心苛立ち始めた丁度その時、一人の男が姿を現した。
それは帝とは似ても似つかぬ小太りの醜男であった。
「司馬懿殿。残念ながら、陛下への謁見は叶いませぬ。陛下は貴殿が出陣した直後より体調を崩され、それよりずっと寝込んでおられます。報告のほうは私がしておきますゆえ、今日はどうかお引き取りくださいませ」
出てきた男の名は曹爽。字を昭伯。名将・曹真の子で、帝の寵臣の一人である。
司馬懿はこれまでに何度か曹爽と会ったことがあるが、正直なところあまり良い印象はない。
戦も政治も父には遠く及ばず、しかしながら態度だけは無駄に大きく気難しい。司馬懿のような古参が相手ともなると流石に最低限の礼儀は見せるが、それ以外が相手だと、その態度は目も当てられなかった。
実際、此度も口調こそ丁寧であるが、しかしその態度にはどこか棘があった。
だが、そんな曹爽に対し、司馬懿は特に嫌な顔を浮かべることもなく、むしろ深々と頭を垂れた。
「わかりました。では、私はこれにて。この司馬仲達、陛下の一刻も早い快癒を祈っておりまする」
司馬懿はそう言うとすぐさま踵を返し、部屋を後にした。
そのあまりに素直な態度に曹爽ははじめ驚いたようであったが、やがて不気味にほくそ笑んだ。
239年、魏帝・曹叡がこの世を去る。その後継の曹芳はわずか8歳と、あまりに幼かった。
はじめは先帝の遺言もあり、司馬懿と曹爽の2人が協力して幼帝を支えていたが、やがて曹爽が権力を独占しようと試みる。
そしてその周りには同じく司馬懿が権力を持つことを快く思わない者たちが集まっていった。
「曹爽様、私めに良き策がございます」
曹爽にそう囁いたのは取り巻きの一人、何晏という男であった。
彼はかつて黄巾の乱鎮圧に奔走した後漢末期の大将軍・何進の孫で、古くからの曹爽の親友でもあった。
「何晏よ、教えてくれ。あの目障りな爺を追い落とす方法を」
「はい。最も落とすというよりは上げるというほうがふさわしいかもしれませんが」
ニヤリと笑う何晏。曹爽ははじめ言葉の意味が分からなかったが、しかしその策の中身を聞くと、満足げに大きく頷いたのだった。
何晏の策は司馬懿を太傅という名誉職に祭り上げることで、実質一線から退かせるというものであった。
しかし、司馬懿のこれまでの功績はあまりに大きく、軍権を完全に取り上げるまでには至らず。結局は軍事を司馬懿、内政を曹爽が行うという形で収まった。
司馬懿はこの仕打ちに特に文句を言うこともなく素直に従い、一方の曹爽も表向きでは年長の司馬懿を立てていたため、両者の間にこれといって大きな問題が起きることはなかった。
とはいえ、両者の関係は危うい均衡の上にあった。241年、ついにそれを崩すきっかけとなる出来事が起きる。
帝が代わり、新体制となって間もない今こそが好機と、孫呉が揚州・荊州の二方面より侵攻を開始したのである。
揚州の防衛には実績十分の王凌が、そして荊州の防衛には司馬懿自らが向かった。
「周囲は父上自ら行く必要はないと強く反対したとか。それを押し切ってまで無理やり出張ってきたということは……」
「察しが良いな亮。まあ確かに他にも目的はある。だが、荊州防衛という重要な任務を他の者に任せておけないというのも事実だ。とにかく今は目の前の戦に集中せよ。お前は初陣なのだからな」
「ハッ!」
愛馬に跨り、戦場へと駆ける司馬懿。その隣を並び走るは司馬懿の第3子・司馬亮である。字は子翼、司馬師・司馬昭の異母弟にあたる。
その司馬師・司馬昭は此度は留守居を命じられ、曹爽の動向に目を光らせていた。
外に気を取られ内への警戒を怠るような愚を司馬懿が起こすはずがなかった。
やがて、司馬懿軍は荊州へと入る。そして。
「亮、見えてきたぞ」
そう言ってさした司馬懿の指の先。そこには荊州の要所・樊城とそれを完全に包囲するおびただしい数の孫呉の将兵の姿があった。