第37話「遼隧の戦い」
「フッ、ようやくお出ましか……」
公孫淵軍の姿を確認し、司馬師はニヤリと笑みを浮かべた。
此度の戦の総大将は司馬懿であるが、それは名目上に過ぎない。
司馬懿は全軍の指揮を若き息子たちに任せ、高みの見物を決め込んでいた。
自分が出るまでもないという公孫淵への挑発か、あるいは子に手柄を立てさせようという親心か。
父の考えはまったくもって不明であったが、どちらにせよ司馬師の心は実力を示す好機の到来におおいに昂っていた。
一方で。
「よ、余裕ですね兄上。俺なんかは緊張して腹が痛くなってきましたよ」
司馬師の弟・司馬昭は兄とは対照的な様子であった。
それもそのはず、これまで幾度か父に従い戦に出たことがある司馬師と違い、司馬昭はこれが初陣なのだ。
しかし、返す兄の言葉に優しさはなかった。
「そういった弱気な言動は慎め。全軍の士気にかかわる」
これには司馬昭も黙って頷くほかなく、やがて魏軍と公孫淵軍は激突した。
公孫淵軍の指揮官は卑衍という将であった。
「全軍突撃! 魏の奴らに我が軍の精強さ、見せつけてやるのだ!」
勇ましく号令する卑衍。だが、彼は所詮凡将に過ぎなかった。
卑衍は司馬師の巧みな用兵に翻弄され、やがて敵中に孤立してしまう。
「な! 気づけば周りは敵だらけではないか! 誰ぞ味方は、味方はおらぬのか!」
彼が己が身の危機に気が付いた時にはもう遅かった。
無様に助けを請う卑衍。そんな彼に一人の若武者が近づいていく。
「我は夏侯仲権! その首頂いた!」
残念ながらそれは、彼が待ち望む味方などではなかった。
次の瞬間、卑衍の首は地面に転がった。
遼隧の地で行われたこの戦いは、魏軍の勝利という結果に終わった。
これを受け、公孫淵は遼隧より兵を撤収させると襄平の地で籠城する構えを見せる。
魏軍は当然これを包囲した。
「あの卑衍が討たれるとは……。弱った。実に弱った。どうしよう。あぁ、どうしよう」
城内にて狼狽する一人の男。彼こそがこの戦を起こした張本人・公孫淵である。
彼は自分の軍こそが最強であると信じて疑わず、魏軍でさえ軽く凌駕できると本気で思っていた。
そのためまさか自分が追い詰められることになるとは夢にも思っていなかったのである。
一向に解決策が浮かばず、今にも泣きそうになる公孫淵。
あまりに哀れな主の姿を流石に見ていられなくなったのだろう。重臣の一人が口を開く。
「公孫淵様。これ以上籠城を続けられるほど城に備蓄はなく、また確たる援軍の当てもない。これはもはや降伏するしかないのでは……」
主と異なり、この状況にあっても冷静さを失わぬこの男。彼の名を衛演といった。
彼とて望んで主に降伏を進言しているわけではない。出来ることならば、最後まで勝利を諦めたくないというのが本音だ。だが、もはや降伏しかこの戦を終わらせる術がないのは誰の目にも明らかであった。
たった一人を除いては。
「この私が降伏? ありえん! だがそうだな……講和であったらしてやってもよい。衛演よ、使者として魏軍の陣へ赴け。この講和、必ずや成功させるのだぞ」
いまだ己が立場がわかっていない主の命に、衛演はただ小さくため息をつくしかなかった。
衛演より公孫淵からの書状を受け取った司馬懿は、流石にその内容の酷さに思わず目を丸くした。
「私もこの乱世を生きて結構経つが、ここまで愚かな者を見たのは初めてだ」
司馬懿はそう言うと、さらに使者である衛演にこう告げた。
「戦意があるならば戦う。戦えなければ守る。そして、守れなければ逃げる。戦とはそういうものだ。あとは降るか死ぬかしか道はない。そして、貴様らは降伏を拒んだ。ならば残るは死あるのみ」
衛演は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
もはや交渉の余地などないということ、そして、これより行われるは戦などではなく虐殺と呼ばれるものであろうことを悟った。
衛演は魏に刃向かったことの愚かさを改めて実感したのであった。
結局、公孫淵は城から逃げようとしたところを捕らえられ、斬首された。
それだけに留まらず、一族郎党は皆斬首、司馬懿は公孫淵に味方した者を誰一人として許さなかった。
地獄絵図と化す襄平の地。
後の禍根を摘むためとはいえ、やりすぎではないか。それは、まだ若き司馬師・司馬昭の兄弟にとって、思わず目を覆いたくなる光景であった。
だが、そんな二人に対し、司馬懿は優しく語り掛ける。
「これが愚者の末路だ。しかと目に焼き付けておけ」
時は乱世。愚者は敗者となり、賢者は勝者となる。
ならば、才を磨くことを止めてはならない。
司馬師と司馬昭はなぜ父がこの戦に自分たちを呼んだのか、その答えが分かった気がした。




