第36話「孔明の後継者」
「司馬懿殿? 聞いておられますか?」
そう言って、王粛が心配そうに司馬懿の顔をのぞき込む。
「ん? ああ、すまんすまん。少しボーっとしていたようだ」
我に返った司馬懿は誤魔化すように笑みを浮かべた。
司馬懿と王粛。かねてより仲の良い二人は蜀との戦に一区切りついたこともあり、久しぶりに会って酒を酌み交わしていた。
魏の重臣の中でも飛びぬけて頭脳明晰な二人である。もっぱら酒の席での二人の話題はこれからの戦や政のことであった。
しかし、どうもこの日に限っては司馬懿の様子がおかしい。
はじめは体調でも悪いのではないかと考えた王粛であったが、思考をめぐらしているうちにやがてある答えにたどり着いた。
「諸葛亮という好敵手を失ったことがよほどこたえたようですな」
「そんな馬鹿な……。いや、そうなのかもしれぬな。確かに奴が死んでからというものの、どうにも頭の回転が鈍い」
司馬懿はそう言って苦笑いすると、己が手で己が頬を叩いた。
そうしてなんとかたるんだ気を引き締めると、盃に残った酒を一気に呷り、本題へと入った。
「ところで、撤退中に魏延が殺されたという話は本当か?」
「詳しい事情はまだわかりませんが、確かのようです。なんでも殺したのは楊儀という男だとか」
「楊儀か。聞いたことはある。いたって凡庸な将だという話だが……。では、諸葛亮の後継はその男が?」
「いや。楊儀自身は自分こそが諸葛亮の後継者だと主張しているみたいですが、実際のところの後継者は蒋琬のようですな。今、蜀の政のほとんどは彼が担っているようです」
「そうか、ならば油断はできんな」
蒋琬の政治家としての優秀さは司馬懿の耳にも届いていた。
また、戦場での知略も諸葛亮には及ばぬものの中々のものだと聞く。
諸葛亮が死んだからといって舐めて蜀へ進軍すれば、痛い目に合うのは容易に想像できた。
「やれやれ、面倒なことだ。仕方ない、今しばらくは様子をうかがうべきだと陛下に進言せねばな」
司馬懿は不満そうにそう言ったが、王粛には心なしか彼の目が先ほどに比べ輝いているように見えた。
時は少し流れ、237年。
戦乱の火種は外だけにあらず。遼東太守・公孫淵が反旗を翻した。
公孫淵は魏より派遣された毌丘倹の軍を蹴散らすとさらに増長し、自らを燕王と称した。
「司馬懿、身の程をわきまえぬ愚か者に鉄槌を下すのだ」
そう命じる曹叡の声には明らかに強い怒りがこもっていた。
「御意」
そして命じられた司馬懿もまた、曹叡とまったく同じ気持ちであった。
かくして、司馬懿は大軍を率い公孫淵征伐へと向かった。
その軍勢の内には司馬師・司馬昭ら司馬懿の息子たちの姿もあった。
これが翌238年のことであった。