第35話「五丈原の戦い ~後編~」
「ぐぬぬ……! 忌々しき城よ! まだ落ちぬのか!」
五丈原にて司馬懿と諸葛亮が雌雄を決さんとしていた頃、合肥の地では呉帝・孫権が苛立ちを募らせていた。
孫権は蜀軍に呼応する形で10万の大軍で北上。数に物を言わせ、魏軍の一大拠点である合肥新城を攻め立てた。
が、しかし。城の守りは孫権の予想以上に堅く、呉軍は苦戦を強いられていた。
そんな中、呉軍の本陣に一人の男が駆け込んできた。
男の服や体は酷く汚れており、背には何本か矢が刺さっている。彼が動くたびに地面に何滴もの血の雫が垂れた。
男の名は孫泰。孫権の甥にあたる人物で、此度の城攻めでは前線の指揮を任されていた。
そんな彼がどうしてこのような無様な姿となっているのか。孫権は問い詰める。
すると、孫泰は小さくかすれた声で答えた。
「も、申し訳ありませぬ……。 我が軍の攻城兵器は……すべて魏軍に焼かれました……」
「な、に……」
その報告に孫権は愕然とした。空を見上げてみれば、前線の方より漆黒の煙が上がっている。
孫権はさらに詳細を知るべく、孫泰に尋ねようとした。だが、すでに彼はこと切れていた。
「こ、この無能めが……! 孫家の面汚しよ!」
そう言って、孫権は物言わなくなった孫泰に怒りをぶつけると、すぐさま全軍に撤退を指示した。
詳細など聞く必要もなかった。視界に孫泰と同じように無惨な姿をした将兵らが次々と逃げてくるのが映った時点で前線の様子は容易に想像できたからである。
死者を弔う余裕すら失ったその姿はあまりに醜く、そして滑稽であった。
かつての江東に覇を唱えた英雄・孫仲謀の姿はそこにはなかった。
陽が傾き、空は段々と朱に染まっていく。
燃え盛る炎の如き赤。しかし同じ赤でもこちらのほうが格段に美しいな、と満寵は思った。
満寵。字を伯寧。曹操の代より仕える将で智勇に優れる。
此度の戦でもその智謀を駆使し、兵力差を覆して見せた。勝負の決め手となった火計を用いたのは紛れもない彼である。
彼は撤退していく呉軍を一人眺めていた。
「ここまで叩けばしばらくは呉軍も攻めてこないでしょう。あとは五丈原……司馬懿殿に限って大丈夫だと思いますが……」
心がざわめく。
と、その時。にわかに西、すなわち五丈原の方角より強い風が吹きはじめたのだった。
8月。五丈原に異変が起きる。
蜀軍がわずかな殿部隊を残し、撤退し始めたのである。
はじめは呉軍の敗退を聞いてのことかと思った司馬懿であったが、次第にある考えにたどり着く。
「そうか! 諸葛亮め、ついに逝ったか……!」
年齢から考えて、ありえないことではない。なにより斥候より「ここしばらく蜀軍に諸葛亮の姿が見えない」という報告はあった。
司馬懿は全軍に号令した。
「諸葛亮は死んだ! 奴のいない蜀軍など恐るるに足らぬ! 全軍、突撃せよ!」
ずっと出撃が禁じられ、皆鬱憤が溜まっていたのだろう。
追いかける魏軍の勢いは凄まじかった。
魏軍は殿部隊を瞬く間に蹴散らすと、着々と蜀軍本隊との距離を縮めていった。
そしてまさに本隊へと食らいつかんとした、その時。
驚きの報告が斥候よりもたらされる。
「ほ、報告します……! 敵軍に諸葛亮の姿を確認しました!」
「なに!?」
司馬懿はとても信じられぬといった表情を浮かべる。斥候が他の人物を見間違えただけではないか。だが、次の瞬間すぐにその考えを改めることとなる。
「て、敵軍反転! 我らを迎撃する模様!」
見れば、先ほどまでほとんど壊走といった感じであった蜀軍が隊列を整え、こちらを迎え撃たんとしていた。
その動きはよく統率されており、とても総大将を失ったばかりの軍の動きには見えない。
(諸葛亮め……! 死んだと見せかけ、我々を誘い込んだのか……! となれば、これは罠……! あそこの丘などに伏兵がいてもおかしくはない)
司馬懿の判断は早かった。
すぐさま軍を停止させると、全軍に撤退を指示。
こうして再び砦へと戻った魏軍であったが、そこにさらに驚きの報が届けられる。
「蜀軍、そのまま撤退して行きます!」
そこで司馬懿は全てを悟った。
諸葛亮は本当に死んでおり、斥候が見たのはよく似せた影武者であったということを。
そして、自分が終始諸葛亮の掌の上で踊らされていたということを。
悔しさのあまり、司馬懿は思わず地団駄を踏んだ。
司馬懿の考えの通り、稀代の天才軍師・諸葛孔明はすでにこの世にない。
呉軍へ書状を出してすぐ後に再び倒れたのである。
そして息を引き取る直前、諸葛亮は撤退時の被害を少しでも減らすためこの策を魏延に授けた。
己が死までも策の材料とする。諸葛孔明という人物は最後の最後まで軍師であった。