第34話「五丈原の戦い ~中編~」
「己のしでかした事の重大さ、わかっておろうな」
平伏する男に対し、司馬懿は冷たく投げかけた。
男は顔中から汗を噴き出し、地に頭をこすりつける。
男の名は文欽。字を仲若という。曹操の代より仕える猛将であるが、やや短慮なところがあり、性格もあまり良いとは言えなかった。
そのため司馬懿はかねてより文欽のことはあまり好ましく思っていなかったのだが、それでもこれまでの戦場で積み上げてきた武功だけは高く評価していた。
しかし此度、文欽は取り返しのつかぬ過ちを犯した。敵の挑発にまんまと乗り、暴走。「守りに徹せよ」という皇帝・曹叡の命に背いた。
そしてその結果、敵の伏兵に遭い、数多の兵たちを死なせてしまったのである。
司馬懿は怒りを通り越し、もはや呆れてしまった。
「もう二度と邪魔はしてくれるな。無能は後方でおとなしくしていろ」
そう言って司馬懿が鋭く睨み付けると、文欽は「ひいいっ!」と情けない声を上げその場を走り去っていった。
その後ろ姿を見て、思わず司馬懿はため息をついた。
一方その頃、蜀軍の本陣では。
「流石は丞相の策!司馬懿なんぞ敵ではありませぬな!ナハハハハハッ!」
文欽隊撃破の報を聞き、一人の若き将が舞い上がっていた。
彼の名は姜維。字を伯約という。
姜維はかつて魏の将であったが、諸葛亮の策の前に完敗。蜀へと下った。
はじめこそ諸葛亮のことをあまり快く思っていなかった姜維だったが、その神の如き軍略を近くで見ているうちに次第に心酔していった。
そして今や立派な諸葛亮の弟子の一人である。
そんな喜びを抑えきれぬ姜維を、策の考案者・諸葛亮は優しくたしなめた。
「姜維。嬉しいのはわかりますが、ここは戦場。あまり気を抜くものではありませんよ」
そう言って、諸葛亮は立ち上がると軍配を静かに上げた。
姜維とは対照的に彼はいたって冷静そのものであった。冷静に次なる策を実行に移さんとする。
だが、その時。彼の手からぽとりと軍配が落ちた。
「丞相……?」
異変を感じ駆け寄る姜維。
しかし、それは間に合わず。ゆっくりと諸葛亮の身体が地面に倒れていった。
諸葛亮が目を覚ましたのはそれからしばらくしてのことであった。
寝具に横たわる彼を、心配そうに姜維と陳到が囲んでいた。
「戦況は……?」
諸葛亮は己が身体のことはなにも聞かず、真っ先に戦のことを尋ねた。
陳到が答える。
「魏軍は砦より討って出ようとはせず、守りを固めております。何度かこちらから仕掛けてみましたがとくにこれといった戦果はあげられず……。現在我が軍の指揮は魏延殿がとっており、魏延殿の指示のもと、丞相が倒れたことは兵たちには伏せております」
「そうですか。魏延殿の指揮ならばとりあえずは安心です。ですが、敵はあの司馬懿。いつまでもこうして寝ているわけには……」
諸葛亮はそう言って無理やり身体を起こそうとした。だが、思うように力が入らない。
仕方がないので、筆と紙を姜維に持ってこさせる。
「丞相、あまり無理をなさらぬほうが……」
そんな姜維の忠告を一切無視し、一心不乱に文を書き上げる諸葛亮。
それからやや経ってその手紙は完成した。
「丞相、これは……?」
「呉への書状です。孫権に合肥への出陣を要請します。西と東、二方向から攻められれば流石の魏もたまらないでしょう」
身体が動かぬならばせめて手だけでも。
このような時にあっても諸葛亮は冷静にただ蜀のことだけを考えていた。
5月。孫権は諸葛亮の言葉通り大軍を率い、魏へと侵攻を開始。
そして6月。呉軍は満寵らの守る合肥新城を完全に包囲した。