第17話「覇道を継ぐ者」
戦後の処理は家臣に任せ、司馬懿と夏侯惇はわずかな供だけを連れて都へと帰還した。
そして曹操の寝床へと通された二人が見たもの。それは、戦場で勇ましく闘う曹操の姿を知る二人にとってひどく衝撃的なものだった。
「殿……?」
司馬懿は思わずそう呟いた。
目の前に居る人物は別人なのではないか。
そう思わずにはいられないほどに彼らの主の姿は変わり果てていた。
寝具の上で横たわるその男の頬は痩せこけ、肌の色は白い。
髪と髭には白髪が交じり、艶は失われていた。
急速に老けた、という表現が正しいかもしれない。
少なくても、それはとても乱世を駆け抜けた覇王には見えなかった。
「二人とも来たか。いま子桓を呼びに行ってもらっている。少しそこで待っててくれ」
子桓とは、曹操の息子・曹丕のことである。
父に負けず劣らずの文武両道。おまけに将兵からの信頼も厚く、曹家の後継者として申し分ない男だ。
わざわざ呼びにいかせているということは、すなわち司馬懿・夏侯惇・曹丕の三人だけに話しておきたいことがあるという意味だ。
そして、司馬懿にはその内容の見当はある程度ついていた。
やがて、その部屋に一人の若い男が入ってきた。
中肉中背ながらも、よく鍛えられた身体。
一方でその整った顔やたたずまいからは上品さが感じられる。
そして鋭い目つきは父のそれによく似ていた。
「父上、お話とは一体……おっと、これは司馬懿殿に夏侯惇。なぜここに」
二人の存在に気付くと、その男・曹子桓は目を丸くし、驚いた。
どうやら呼ばれたのは自分ひとりと思っていたらしい。
「揃ったか」
曹操はそう言うと、身体を半分起こした。
だが、もはや一人で身体を起こすことも難しいようで従者の一人に手伝ってもらっていた。
そして、やっとの思いで身体を起こした曹操は自嘲気味に笑うと再び口を開いた。
「見ての通り、わしはもうすぐ死ぬ」
その瞬間、空気が凍りついた。
三人とも黙り込み、少しうつむく。
だが、曹操はそんなことをまったく気にも留めず話をさらに続けた。
「そこでだ、今日はわしの死んだ後のことについて話しておきたくてな。子桓と、そしてわしの最も信頼する二人を呼んだのだ」
曹操はそう言うと三人の顔を順に見る。
そして少しではあるが優しく微笑んだ。
司馬懿は主の朗らかな顔をはじめて見た気がした。
「孟徳、そういった重要なことは家臣みなが集まっているときに言ったほうが良いのではないか?」
夏侯惇は疑問に思ったことを口にする。
いや、もしかしたら曹操からその言葉を聞くのを少しでも後回しにしたかったのかもしれない。
おそらくその言葉は主君からの最後の言葉となってしまうから。
だが、曹操は首を小さく横に振った。
「もちろん後でみなに話す。だが、その前にお主らには言っておきたかったのだ」
曹操はそう言うと一呼吸置く。
そしてついにその言葉は発せられた。
「いままでわしに仕えてくれたこと、心から感謝している。これからは、子桓のことを支えてやってくれ」
その言葉に、夏侯惇の目から一粒の雫が落ちた。
隻眼の猛者も今回ばかりはさすがに泣かずにはいられなかった。
一方、その横の司馬懿はいたって平然としていた。
だが、主君がいま死を迎えようとしているのに悲しくないわけがない。
平気そうな顔をして、実は心の中で必死に涙をこらえようとしているのを曹操も夏侯惇も知っていた。
数日後、数多の戦場を駆け抜け、華北一帯にその名を轟かせた英雄・曹孟徳はこの世を去った。
司馬懿は初めて曹操に会った時のことを思い出す。
あの時、曹操は司馬懿にこう言った。
『ならば、しばらくわしに仕え見極めよ。わしがこの乱世を終わらせるのにふさわしい者なのかどうかをな』
結局、曹操は乱世を終わらせることができなかった。
だが、あと少し生きながらえていたら。病の侵攻がもう少し遅かったらどうだっただろうか。
考えても意味のないこととわかっていながらも、そう思わずにはいられない。
「はぁ……やれやれ。まずは曹丕様が覇道を継ぐのにふさわしいお方なのかじっくりと見極めなければな」
司馬懿はそんなことを言ってしまう、相変わらず素直になれない自分に思わず苦笑する。
本当は心の中ではすでに分っていた。
自分が曹操の覇道に心酔していたことに。
そして、それを継ぐ曹丕が造る天下に心を躍らせていることに。