第101話「蜀漢征伐 ~その10~」
蜀帝・劉禅は窓から差し込まれる陽の光で目を覚ますと、ゆっくりと寝具から身体を起こした。
乱れた着衣を直し、部屋を後にしようとして、足を止める。
背中に伝わる柔らかく温かい人肌の感触。
劉禅は振り返り、その者を強く抱き締めた。
「すまぬ、起こしたか。……いや、これが今生の別れになるかもしれぬのだ。無理にでも起こし、こうするべきであった。許せ……」
そう言って劉禅はその者、張皇后の髪を優しく撫でた。
張皇后は一糸纏わぬ姿で、その身体を完全に劉禅に預けている。
「これから陛下が歩むは茨の道。……もし叶うのであれば、これからもお傍で陛下を支え、その茨の道を共に歩みとうございます」
「ありがとう。そうだな、朕も其方が傍に居てくれたらこれ以上に心強いことはない。だが今日、朕はそれを決められる立場ではなくなる。全ては魏帝、いや司馬大将軍のお心次第か。だが、例えどんな立場になろうとも、例えこの命を失っても、心はこれからも其方と共にあると誓おう」
劉禅の言葉に張皇后は思わず涙を流しそうになるが、必死にこらえ、精一杯の笑顔を劉禅へ向けた。
后としてここは笑顔で見送らなければならない、そう思ったのである。
やがて2人の時間は終わりを告げる。
扉の外からの女官の声がその合図であった。
「陛下、そろそろお支度をお願いします。間もなく朝議のお時間です」
劉禅がそっと張皇后を離す。
その表情は凛々しく決意に満ちたものであった。
「では、行ってくる」
遠くなっていく劉禅の後ろ姿。それが徐々に滲んでいく。
張皇后の目からはそれまで止めていた大量の涙が溢れ出ていた。
「方々、ご静粛に! 皇帝陛下の御出座であるぞ!」
朝議のため集まった群臣たちに向け、そう声を張り上げたのは張紹という中年の文官であった。
彼は張飛の息子、張皇后の兄にあたる人物で、すなわち外戚にあたる。
口元に蓄えた立派な虎髭は父のそれとよく似ており、その風貌には威圧感があった。
皇帝と近しい彼の言葉は、魏軍の襲来で浮き足立つ者たちを鎮めるには十分であった。
場が静まってしばらくして、張紹の言葉の通り蜀帝・劉禅が姿を見せた。
劉禅は群臣たちを一通り見渡したのち、その口を開いた。
「皆の者、面を上げよ。ふむ……。黄皓の姿がないようだが?」
その問いに再び群臣たちはざわついたが、しかし張紹が咳払いをするとそれは直ぐに収まった。
張紹は劉禅に恭しく礼をし、問いに答える。
「黄皓殿はここ数日屋敷に閉じこもり、出仕を拒んでおります。魏軍の侵攻など有り得ぬと声高に主張しておりましたから……恐れながら陛下からの粛清を恐れているものと思われます」
「……そうか。此度の国難、全ては朕の不徳が招いたこと。どうして臣下を責められようか。皆にも、朕が優柔不断ゆえに多くの苦労をかけた。だが、ようやく我が心は定まった」
そう語る劉禅の表情は穏やかでありながらも確かな決意を感じさせるものであり、それは亡き先君・劉備を彷彿とさせるものであった。
少しの間があって、劉禅がさらに言葉を続けた。
「朕は、魏に降伏する」
ついに発せられたその言葉に、場にいる者たちの反応は別れた。
涙する者、放心する者、不満を顕にする者。
しかし、劉禅はその全ての思いを受け入れるつもりでいた。
劉禅は言葉を重ねる。
「……朕の決断は、先帝とその志に惹かれ尽くしてきた多くの忠臣たちの思いを踏みにじるものである。かつて先帝が拒んだ曹家の軍門に降る……。なんと不甲斐なく、愚かな後継だと皆思っていることだろう。朕自身もそう思う。……だが、朕はこれ以上この国のために傷つき、命を散らしていく者たちの姿を見たくはないのだ。成都が攻められれば、無辜な民たちにも危害が及ぶ。それだけは避けねばならぬ。そう思い、決断した」
群臣たちは顔を見合わせる。
皆、突然のことでまだ感情を上手く整理できていないようであった。
だが、そんな中でただ1人、譙周だけは劉禅の言葉にハッキリと賛同を示した。
「私は陛下のお考えに深く感じ入りました。民の安全を第一に考えるその御心、まさに先帝に通じるものがあります。きっと劉備様が同じお立場であっても、同様の決断をしたことでしょう」
すると、譙周に続いてその隣にいた年若い文官も口を開いた。
彼は文立という者で、譙周の弟子の1人であった。
「譙周様のおっしゃる通りです! 諸葛瞻殿は戦死され、姜維殿の生死は不明。このような中で抵抗しても犠牲が増えるのみ。我らの意地のために民たちを巻き込むわけにも行きません。この文広休、陛下の御意に従います!」
譙周、文立と続いて劉禅の言葉に賛同したことで、皆も口々に劉禅の決断を受け入れ始めた。
しかし、全員が全員そうというわけではなく、怒りの感情を隠せぬ者もいた。
その者は、他ならぬ劉禅の五男・劉諶であった。
「降伏? 何を馬鹿なことを! 父上も、それを受け入れる皆も狂っておる! 敗北が必至なればこそ、城を背にし命果てるまで戦うべきだ! 俺は劉玄徳の孫として、絶対に曹家に頭は垂れぬ! そのような無様を晒すくらいであれば、いっそ自らこの命を絶つ!」
そう言い残して、劉諶は場を去っていった。
何人かがそれを制止しようとしたが、劉禅がそれを止める。
「よい、放っておけ。……もしこの中に劉諶と同じ思いの者がいれば、奴に付いていっても良い。奴の申す事もまたもっともである。だが、仮に奴がどんなことをしようとも、朕がこの決定を曲げることは断じてない……!」
それは劉禅にしては珍しくかなり強い口調であった。
だからこそ皆、劉禅の決意の固さを感じたのか、それから降伏に異を唱える者は1人も出なかった。
成都城の正門が重たい音を上げ、ゆっくりと開かれる。
城門前には既に鄧艾率いる魏軍が到着していた。
魏の将兵らの視線が城門へと集まる中、姿を現したのは自らを縛り上げ、棺を担いだ劉禅であった。
その姿は降伏する際の仕来りに沿ったものであった。
「朕は劉公嗣。劉玄徳の血を継ぐ、この国の帝である。今、ここに宣言する。我々は曹魏に降伏する」
劉禅の言葉に、魏の将兵らが騒めき出す。
何かの罠を疑う声もあったが、鄧艾は単騎で劉禅に近づくと、言葉を返した。
「ぎ、魏の征西将軍・鄧士載である。よ、よ、よくぞ申してくれた。こ、降伏を、じゅ、受諾する」
こうして2代皇帝・劉禅の降伏を以て、蜀漢は滅びた。
それはすなわち、長き渡り続いた三国鼎立の終焉を意味していた。
この劉禅の決断は、結果として成都が戦場になることを防いだ。
しかし、蜀の民たちの中には戦わず降伏した劉禅のことを「暗君」となじる者も少なくなかった。
また、最後まで魏への降伏を良しとしなかった劉禅の五男・劉諶は、朝議で口にした言葉の通り、己が妻子を殺したのちに自刃して果てる。
だがそれでも、劉禅の心に後悔の念は一切なかった。




