8通目:楽園崩壊
from.リィ
速攻で片付けるなどと息巻いたくせに、なかなか剣の間合いに入れずに内心随分と焦った。情けない話だ。
校舎の屋上に辿り着いて3分ほどで、結局予定していた通りに事は運んだ。そう遅いわけでは無いものの、コレはできれば使いたくはなかった手段だった。後のことを考えると気が重くなる。
直径2メートル近い火球が俺に届く瞬間、大量に精製した水の壁でそれを相殺。より増量した煙の中に隠れていた俺は、そんな思考を押し殺しつつも対象を冷静に観察していた。
動揺は見えるものの、彼は大切に思っていたであろう女性のもとへ右手を伸ばし歩み寄ろうとしている。対象の世界鍵に干渉し、パンドラ・エフェクト内で繰り返されてきた行ないを制御することで、ルゥがここまで誘導してきた女性型のドールのもとへ。
マヤ・ホナミ。ユグドラシル・アカデミーの主席にして、当代随一とまで言われた術師。世界鍵への類稀な同調率を見せ、およそ個人で再現可能とおもわれる術式の多くを学生の身で体現して見せた天才。あれがその姿を模したドールであることは対象の関連情報から判断できても、対象がこの時点で彼女にどれだけ思いを寄せていたかは分からなかった。ただ、その行動を見る限りでは……その必死さに好感を覚える。そして、罪悪感も。
煙と一緒にそれを振り払うようにして飛び出す。対象の脇を駆け抜けながら、剣を振り抜いた。予定通り右腕を根元から切断する。既に駆け出し始めていた対象はバランスを崩し、驚愕を感じさせる顔のまま倒れ伏した。
「ぐ…… あ、あああっ……!」
痛みを感じていないように、残った四肢で這いずりながら賢明に彼女の元へ行こうとしている。しかし、もはや無意味だ。彼女は消える。
「ルゥ。侵食率のチェックを」
そして、この世界も。
『侵食率の低下を確認。92%…… 85…… なお低下中』
ふう、と俺は安堵の溜息を洩らした。どうにか間に合ったらしい。沈みゆく夕日に目を移すと、既に崩壊は始まっていた。
黒さを増し、じきに夜に差しかかろうとしていた夕日を断ち割るように白い線が入る。そこから白い光が滲み出し、溢れ始める。そこだけではない。空のそこかしこから、爆発で散った瓦礫から、校舎から現われた白いひび割れが少しずつ大きくなっていく。
ふと見ると、倒れたドールが対象のほうへ向いて口を開いている。音は聞こえない。発音できていないのだ。ひび割れは彼女の身体からも生じていた。目は光を失いガラス玉のような作り物めいた印象を受ける。
『69…… 54…… 32……』
崩壊が早まっている。対象の脇に歩み寄ると、その顔はドールのほうを向いて固まっていた。恐らく、彼女の唇の動きを見てフラッシュバックに似た現象に苛まれているのだろう。気が遠くなるほど繰り返しては忘れていたやり取りを思い出していたに違いない。この校舎の屋上に彼女を呼び出して交わしたやり取りが、この時間を核として設定した理由なのだろうから。
「目覚めの時間さ。元守衛」
現実に戻る幾ばくかの助けになるはずだ。そう思い声をかけた。対象が呆然とした顔でこちらを振り向く。血の気は失せてまるで死人のよう。やっとの思いで搾り出したのだろう、かすかな声。
「元?」
「守る門が無くなったんだ。仕事も無くなったに決まってる」
自分の身体にもひび割れは侵食していた。滲む光がそろそろ眩しい。声が届くのはこれが最後だろう。
『19…… 7…… パンドラ・エフェクト、崩壊します』
「ようこそ。パンドラの箱の中へ」
光に包まれ、視界が完全に失われる。同時に何かが割れるような音がして、失われた楽園を守ってきた外殻はとたんに光を失い卵の殻のように割れて崩れ落ちていった。
自分の姿を見る。アバターだった姿は消えうせて、本物の肉体が顔を出していた。最も、服装を含めて外見はそのまま流用していたので、さほどの違いは無い。せいぜい汚れが酷くなったくらいか。頭をぽりぽり掻くと頭皮のかけらが指についた。うむ。とっとと帰って風呂に入りたい。この身体にはさして意味の無いことだが、人間らしさと言うものは大事なのだ。今の俺にとっては特に。
足元を見る。まずケイン・マックスウェル…… 保護対象が倒れている。切断したはずの腕は元通りで、五体満足に見える。
続いて周囲を見渡すと、パンドラ・エフェクトに進入する前と同じ風景が広がっていた。どれも元は風情の有る外観だったらしい建物の残骸。つぶれ、ねじれ、引き裂かれた跡。ひときわ目立つのが、建物跡に囲まれた2本の柱だった。人が2、3人入れそうな太さの縄を巻かれ装飾された、半ばで折れて無残な姿を晒す巨大な柱。かつて異世界のひとつと繋がっていた、タカマガハラ・ワールドゲートと呼ばれていた大門の痕跡。
たとえ門を修復したとしても、今はもうここから世界を渡ることはできないのだが。
「……どっちが中だ外だって言っても詮無い話かね」
「ぶつぶつ言ってないで、彼を車に積んで」
外殻のあったすぐ傍。ユグドラシル・アカデミーの運動着に身を包み、上に砂塵避けのマントを羽織った少女が、外殻に突き刺して使っていた端子付きコードを巻き取っていた。ルゥ。俺のマスターにして、この事態の解決にオブザーバーとして参加した少女。
「そうだな。急いで撤収しよう。荷台に機材を載せたら、マットを広げておいてくれ。処置をしながら走ることになるぞ」
足元を見ると、パンドラの中で見たより少しばかり大人びた顔になった感のある保護対象が気を失って転がっていた。腋に手を回して持ち上げ、その足を引きずりながらトラックのほうへと運んでいく。
のんびりしてはいられない。酷い体調でこの件に対処しなければならなくなった理由と、この状態で鉢合わせすれば今度こそ覚悟を決めなければならない。
「それに、こいつが起きたらイチから説明しないとイカンだろうしなあ…… 走りながら話の流れを考えておかんと」
ぬああ、とやけくそ気味に保護対象の身体を持ち上げ、荷台に放り込んだ。