6通目:茜色の逃走
from.ケイン/リィ
振り下ろされた剣先が頬をかすめる程度で済んだのは偶然としか言えない。世界鍵のシグナルが無ければ危なかった。まるでオーバーライドによる身体強化が効いていたような素早さで身をかわすことができたが、正直何の備えも無しに同じことができる気はしない。慌てて距離を取って相手を見ると、黒い外套を羽織った男が振り下ろした剣を構え直しているところだった。黒髪黒目に黒や灰色、白で揃えた衣類。肌色が無ければ彩度を何処かに捨ててきたような姿。
観察できたのはそこまでだった。危険を前にして、世界鍵に指示を送る。
『簡易動作実行。〈緊急離脱用〉オーバーライド開始』
僕は世界鍵の通知が終わるのも待たず、短時間で完了しより速く走れるよう特化した身体強化を使用して、校舎のほうへ駆け出した。さっきまでボールを追って猪のように運動場を走っていた生徒たちを越える勢いで地面を蹴りつける。黒外套はこちらへ走り始めた。道にはわずかだが人通りがある。僕は叫んだ。
「助けて! け……警備員を呼んでください! 誰か! ……!?」
この異常に誰も注目しない。道を歩く人たちは、何も起こっていないように歩いてゆく。僕にも黒外套にも目を向けることなく、穏やかな世間話さえ続けていた。
黒外套は僕を追いかけて走る。ただの暴漢じゃない? 僕が狙いなのか?
急がなければ背中を斬られかねないと、走ることに集中する。息の荒いまま校舎の中に飛び込むと
「あれ。先輩と一緒じゃなかったのか、オマエ」
愛しの人こと、保健室の先生へ迷惑を顧みず突貫していたはずの同級生であった。
ロビン・ワイエス。さっき僕から初勝利をもぎ取って行ったラナの兄にして、自称愛に生きる男である。外見はチャラ男の一言で大体説明できるが、これで人の良い奴だ。
――――。
「何だよ。また適当にあしらわれたのか」
「馬鹿を言うな、シヅルたんのあの一見心無い言葉に俺への愛が詰まっているのだ」
「たん言うな。馬鹿なのはお前だ、言い寄る生徒全員にあの調子だろうが。どんだけ愛の大安売りさせるんだよ」
「フルボッコだな。いいか、俺に言うときには他とは声のトーンがだな、こう――」
――――。
『思考ノイズを発見しました。除去します』
世界鍵からの通知だ。思考ノイズ? 何のことだろう。
こんな時でなければ彼の戦果を聞いてみたかったところだが、話どころか立ち止まることすら危険な状態なので
「ご……ゴメン!」
謝ってその脇を走り抜けた。階段を昇りだして一瞬振り返ると、怪訝そうな顔をした彼と、その身体を押し退ける黒外套の姿があった。やっぱり認識されていない様子である。どんなオーバーライドを使用すればああなるのか。理解できないまま階段を昇ってゆく。2階、3階、4階……
…………。
あれ。今、俺。ロビンと話したっけ?
* * * * *
初撃を外された際の動きを見て、素直に立てていた作戦を採用する。やはり特に何もしないでも、階段を昇って屋上に向かってくれた。
夕焼けが窓から差し込むのを見て少しばかり言い表し難い感動を覚える。この光景が故郷のものと言うならば、わざわざドームの内側に映そうという気持ちも分からないでもない。屋上で見る景色はなかなかのものだろう。それを楽しむ余裕は、恐らくありはしないだろうが。
『――リィ』
「早かったなマスター。予定通り進行中。追い詰めるまでもう少しかかる」
『対象の最新の記録。 ……ケイン・マックスウェル、27歳。〈境界守護機構〉に所属、タカマガハラ・ワールドゲートの守衛を担当している。
ただし今はユグドラシル・アカデミーの次席。分類は精霊術師で、オーバーライドは熱量操作を軸に組み立ててる』
「さっき見たままか。オーケー、詳細は共有エリアに置いてくれ。どうやら影響が出始めているらしい。化ける前に速攻で片付ける」
『ハンデ有りでいなせる相手じゃない。 …………』
2人が自由にアクセスできる意識の共有エリアに置かれた資料。それに走りながら目を通していると、共有エリアを踏み越えて思考のやや深い部分まで彼女が侵入してきた。リンクの最中はろくに隠し事もできない。本当に困ったもんだ。この深度なら本気で拒めば弾き出せるのだが、なんというか。それは後ろめたいものがあって憚られた。
「いやだから、深めの領域を覗くならせめて先に一言断りなさい。ああもう。
……分かったろ? どうせ胸糞悪い絵になるんだ。わざわざ最後まで見なくても」
『駄目。オブザーバーは必須。どのようなケースでも不測の事態は起こり得る』
耳が痛い。教えたのが俺自身だという事実が殊更刺さる。
「…………。分かったよ、ルゥ。降参だ、そっちは任せる」
『了解。パンドラ・エフェクトに介入、こちらでドールの行動パターンを調整する』
* * * * *
屋上まで辿り着いた。夕日が差し込む誰も居ない空間をそのまま進み距離を稼いでから、振り返って入口を確認する。まだあの黒外套は顔を出さない。今のうちに歓迎の準備を整えないと。ポケットに仕舞いこんでいた琥珀を取り出す。
この琥珀が、学園が囲む大樹から剥がれ落ちた樹皮の欠片を加工して作った、僕と望む世界を繋ぐ扉の鍵。僕の本質やこの世界の仕組みにかけられた錠前の鍵。
僕専用の〈世界鍵〉だ。
右手の甲に押し当て、意識を集中すると琥珀から赤い光が放たれ始め、右手の甲に張り付いた感覚が生まれる。肌に触れさせることで同調率が上がり、よりスムーズに世界鍵への意思伝達ができる。
そういえば、緊急離脱用のオーバーライドがやけに早く展開できたのは何だったんだろう。斬りつけられた瞬間も妙に調子が良かったような……?
――――。
「そうね。じゃあ私に一度でも勝てたら、考えてあげてもいいかな」
「ここまでついてきたの、あなただけだもの。もうこのまま最後までついてきてくれない?」
「後悔だけはしないようにしたいの。お願い、ケイン」
――――。
『思考ノイズを発見しました。除去します』
まただ。何だ、今のは。僕の妄想か?
雑念を振り払わないと。こんな時に妄想が原因でオーバーライド失敗だなんて笑えやしない。でも、そうだなあ。この面倒ごとが終わったら、予定通りに改めて告白しよう。待ってろ、マヤ。
胸の奥に力を感じる。僕を、熱量操作や高低温の遮断を行なえる僕へと、都合良く上書きしてくれる魔法の鍵が、異世界への扉を開いた証。
『照合終了。同調率が規定値に到達。開門しました。現在の情報を保存し、登録名〈マクスウェル〉によるオーバーライドを開始します』
脳裏に慣れ親しんだ声がする。いくら自分にしか聞こえないとはいえ、恋した相手の声に似せるのは気恥ずかしかったけど、それが予想外に心を落ち着かせてくれたことに感謝して、屋上の入口を睨みつけた。僕を切りつけた黒外套の姿を確認して、即行動に移る。
僕が分かり易い能力を選んだ理由は2つ。理解の及ぶ能力は、制御も容易なこと。そして結果も簡単に想像がつくこと。あわや殺されかけたことを考えると、これくらいされても文句は言わないだろう。よほど重度の火傷でなければ、シヅル先生がいればアッサリ治してくれるはずだ。
僕の手から放たれた、人間の頭ほどもある真紅の玉が屋上の入口に炸裂し、そこに現われた黒外套を炎が包み込む。爆音とともに黒煙が屋上を覆い隠した。
これだけやったらさすがに周囲に異常が知れ渡ると思うんだけど…… その時はその時だ。校長、許してくれるといいな。これはさすがに無理か?
うん。非常事態と言って押し通そう。