2通目:あたまは、ぶきです。
from.樹 心一朗
音のしたほうを見ると、この部屋にひとつしかない扉の中央が盛り上がっている。まるで向こう側からハンマーで叩いたように。
鉄扉に見えるそれが変形している様にあっけに取られていると、再び甲高い音と共に扉が曲がる。
もはや何者かが扉を強引に開こうとしているのは明白だった。
「うわぁ。もう来たよ」
『イツキ、反対側の壁のほうへ下がっていると良い』
立ち上がり扉のほうを向くパティ。天井近くまでふわりと浮き上がって喋るストラスに促されるまま、どうにか腕で奥の壁のほうへ寄ろうとする。
しかし、なかなか前に進まない。力の入らない足は床を掻くばかりでろくに役に立っていない。部屋が妙に広いこともあって、壁に着くまでかなり時間を取られそうだった。
「腰が抜けたの!? 早く下がって!」
『待てパティ。恐らくイツキの足は』
今までとは違う音がして、金属の倒れる音がそれに続いた。扉が外れて床でぐわらんぐわらんと耳障りな音を立てて膨らんだ部分を支点におきあがりこぼしのように揺れている。
そして騒音の犯人が、のっそりと室内に入ってきた。
レスラーみたいな体格のどす黒い色をした毛むくじゃらの猿。そんな感じの生き物が、窮屈そうに入口を潜って倒れた扉を蹴り除けた。
「ストラス。圧力最大で」
『装填済みだ。部屋内は異常なエーテル密度だ。弾切れの心配は要らない』
「変なのはとりあえず――」
猿が前のめりの姿勢で、腕を振り上げてこっちに向かって走り出した。
背中を丸めているが、直立すれば2メートル半くらいありそうな巨躯に、丸太のように太い腕。掴みかかられたら僕などは一瞬でボロ雑巾になりそうなものだが、そのうえ手の甲には何やら金属的な鈍い光沢があっていかにも硬そうだった。
先ほど夢の中で僕の顔面を襲った拳が思い出される。この世界では硬い腕でぶん殴るのが流行っているのだろうか。
そんなものを前にして、パティは怯むどころか右手を猿に向けて叫んだ。
「顔面か股間殴って黙らせるっ!」
ドドドドド、とマシンガンのように立て続けに拳から放たれる爆音に合わせて、まだ3歩くらい先に居る猿が踊りながら後ずさっている。いや、何かに殴られているのだ。ドパンドパンという炸裂音に合わせて顔が変な具合にひしゃげている。あと良く見えないけど、たぶん股間の辺りも。容赦無い。
『空圧弾だ。圧縮した空気を打ち出して正面の相手にぶつけているだけだが、多少は法則変換も使っている』
梟がこちらの頭の上まで寄ってきて話し始める。さっきの話の続きだろうか。
『違うものだが、魔法と言えば理解し易いのだろうか。そちらではあまり見ないのではないか』
そちら。こちら。 ……異世界。
確かにあの小手ぐらいのサイズで空気を圧縮して殴りつけるくらいの勢いで放出する機械なんてものは知らない。しかし単純に僕が知らないだけかもしれないし、話を聞いた感じだと疑問はあるものの一応は理解できる理屈のようにも思えた。
少なくとも魔法だとか言われるよりは…… 魔法? そんな無茶な。
そんな話をしているうちに、空気に殴られすぎたのか。猿の頭がもげて地面に転がり、曲がった扉を叩いて再度音を立てる。ぐわらんぐわらん。
炸裂音は止んだが、パティはまだその拳を猿へ向けたままだった。残心というやつか。猿の身体が膝を突いて、その巨体を前に倒し致命傷を僕のほうへと晒す。
「うわグロ」
……くも無かった。少なくとも思ったよりは。
その傷跡は黒く濁った固まりというだけで、血や内臓が出てくるわけでもなかった。取れた頭や崩れ落ちた巨体は黒い煙のようなものを上げ、空気中に溶けてその体積を減らしていった。
遅まきにどうにか壁まで辿り着いた僕は、壁を頼りに背中を擦り付けるように身体を持ち上げてその光景を見ていた。
「もう。歩けないなら先に言ってよ」
足を見る。体重を支えきれず、生まれたての子鹿のように震える両足。
1年以上リハビリを続けてきた結果がこれだと、なんとも報われない。
「肩を貸したら歩ける?」
歩み寄って右手を伸ばすパティ。その手を取ろうとして、顔を上げる。
床に転がった扉がまだ音を立てている。ぐわんぐわん。
その音に紛れたのか。右手を伸ばすパティの脇から入口のほうが見えて。
もう一匹。静かに部屋に入ってきた猿が、飛ぶように駆けて来る姿が目に入った。
すでに先に息絶えた猿の姿は無く、まるでそんなものは最初から居なかったかのよう。
さっきの光景の焼き直しだった。
違うのは、目の前でその猿を打ち倒した彼女の武器が、今度は僕を助け起こすためにこちらに向いているということだけ。
ストラスが声を上げて危険を知らせる。パティが入口のほうに振り向こうとする。
素人目にも思った。間に合わない、と。
危ない。そう思った次の瞬間、硬いものがひび割れるような音がした。
轟音。そして衝撃。
気がつくと、天地が逆さまになっていた。
「あいたたたたた」
『大丈夫かパティ。そしてイツキ』
目に入ったのは腰をさすりぼやきながら立ち上がろうとしているパティ。その脇に浮かびながら声をかけるストラス。亀裂の入った床や壁面。
全部逆さまなのは僕自身が逆さまになっているからだ。頭に血が上りそう。あとは、自分の脇から上がる黒い煙だった。
「うっわぁ!」
ごろごろ転がってその場を離れる僕。どうやらさっき襲い掛かってきた猿を下敷きにしていたようだ。身体がめちゃくちゃに曲がって節々からさっきのように黒い煙を噴いている。こいつもじきに消えて無くなるのか。
『凄い勢いで飛んで行ったな。まるで人間砲弾だ』
僕が体当たりでこの猿を押し潰したというのだろうか。
どうやって?
「何よ、歩けるんならそう言いなさいよ。心配して損しちゃった」
「え……」
驚いて足元を見る。消え去ろうとしている猿から飛び退いた僕は、その勢いで立ち上がっていた。立ち上がって――
そのまま足を伸ばして立っている。
「……あれ?」
足の震えも虚脱感も無くなっていた。
さっきまでその役目を半ば放棄していた僕の足は、そんなことは無かったと言わんばかりに僕の身体を平然と支えていた。
屈伸してみると、とてもスムーズに関節が動く。軽く跳んでみると、足の裏に確かな手ごたえを感じる。まるで月にでも来たかのように易々と身体が宙へと跳ねた。
いきなり重力が弱くなったとか、そんな印象ではない。身体に確かな力を感じた。
「ちょっと、聞いてるの?」
『いや、待て。さっきまで濃度が濃すぎて分からなかったが』
あまりの出来事に、二人の言葉が頭を通り抜けていく。
そんな馬鹿な。僕にとって理不尽といえばこれ以上のものは無かったのに。
今までの苦労は何だったのか。ようやく心が事態を飲み込んだのか、涙が枯れてなお努力を繰り返しても応えてくれなかった僕の足は
『この部屋に充満するエーテルは全て』
「あ。は、ははははは!」
笑い声を上げてもなお溢れ出さんとするこの感動を、動作で十二分に表してくれた。天にも昇りそうな勢いで僕の身体を跳ね上げた。
『彼が生み出したものだ』
「はははガッ!」
当然の帰結として、天井に手酷い拒絶を受けた僕は。力無く落ちて床にキスをする破目になったのだが。
「……ちょっと。大丈夫?」
床に転がってもなお笑い続ける僕に向けて心配げな声をかけるパティ。
何がどうとは言わずとも、まあ僕の正気を疑ってのものだったのだろうが。結局、僕が笑うのをやめてまともに会話できるようになるまでにもうしばらくの時間を必要とした。
さっきの彼女のことを悪く言えないが、この迸る感情に免じて許して貰えれば幸いである。